競馬サークルにおける科学者の怠慢

評論家の山野浩一氏が『週刊競馬ブック』(2016年5月15日号)のコラム「一筆啓上」に「父系の重要性を見直そう」と題した持論を書かれましたが、 拙著ではそれが全く非科学的な話であることを述べました。実は、このように批判的なことを拙著に述べることを最後の最後まで迷いました。しかし、競馬界の大御所の論述と言えども、 このような科学的根拠がないどころか、既存の科学から全く逸脱しているものを看過してしまって本当に良いのだろうか?  という思いに基づき断腸の思いで山野氏の論述の何が問題なのかを詳述しました。以下がその山野氏の論述です:

「サラブレッドのほとんどがエクリップスのY染色体を受けていることにもなるが、染色体を構成するDNAは常に環境や栄養や人との関わりによって少しずつ変異しており、 代を経ると同じエクリップスを起源とするY染色体でも、サンデーサイレンス系と、ノーザンダンサー系ではかなり違うDNAを持つようになる。 しかし直系の強い血縁にあるサンデーサイレンス系の牡馬ならY染色体が共通のDNAを持つパーセンテージが高い。 Y染色体の遺伝因子は牡馬としての肉体を作るものではあるが、牡馬の肉体が発育する過程では他の遺伝形質にも牡馬らしさを与えていき、 特にホルモン代謝はY染色体のDNAによる情報によって全身のDNAを牡馬として発現させていく。 闘争心とか、頑強な肉体といった牡馬的な要素の多くはY染色体のDNA情報を起源として発達すると考えられる」

問題点(非科学的な点)を端的に述べれば、そんなに簡単にDNAが変異すれば世の中は変異した生物だらけになります。また、 確かに牡という性決定を行うのはY染色体ではあるものの、牡となった個体が自らを牡と特徴づけるホルモンは常染色体にある遺伝子が深く関わるとされます。 性決定以外に有用な遺伝子がほとんどないとされるY染色体のDNA情報を起源として闘争心や頑強な肉体が発達するという考えは、あまりに突拍子もない。

ファンがこのような論述を信じるのは全くもって構いません。しかし、中小の生産者がこれを信じてしまったら(または信じてしまった調教師や馬主に翻弄されたら) 死活問題にさえなるかもしれません。正直なところ、私はこれを読んだ時は本当に驚愕しました。その内容に驚愕と言うよりも、 JRA賞馬事文化賞を受賞した競馬界の大御所のこのような論述を、日本を代表する硬派の競馬誌たる『週刊競馬ブック』がノーチェックで掲載したということに驚愕したのです。

「日本ウマ科学会」という学会があります。事務局の所在地はJRA競走馬総合研究所内であることからも、JRAの外郭団体のようなものと思って間違いありません。 山野氏はそこの会誌の編集委員でもありました。よって、JRAの超一流の研究者等と常に接されていたでしょうが、なぜ深慮なく上記のような持論を展開してしまったのでしょうか?  私が懇意にしている科学者は「山野さんはもともとSF作家なので発想が自由だから……」というようなことを言っていました。思ったのですが、 大いに誤解を招く非科学的な理論を発した者に対して、(特にJRAのような組織に籍を置く)一流の科学者たちは何も啓発してこなかったのではないでしょうか?  競馬界をリードしてきた大御所が今般のような論述を発したことで、そのような状況が非常に容易に想像できてしまうのです。今回のようにノーチェックで掲載されたこと、 さらには立派な学会の編集委員であった人がこのような疑似科学的理論をあたかも真実のように自由奔放に掲載したということにより、 競馬サークルは血統関連の論述について無法地帯であるということが非常によく分かります。

改めて思います。私は、このような状況が日本の競馬サークルに蔓延している最たる責任は、それを看過し続けて啓発を怠ってきた「科学者」にあると思います。 科学者自身が日本の競馬サークルの底上げをもっと真剣に考えて下さい!

私も競馬に携わる科学者の端くれですから、私にも間違いなく連帯責任があります。よって、自分なりにできることをやらねばと改めて思っている次第です。

(2018年1月14日記)

いまさらではあるのですが、牝馬はY染色体を持っていません。では、アーモンドアイやリスグラシューのような牝馬における闘争心や頑強な肉体はどこから来ているのでしょうか?  残念ながら山野さんの理論は、この側面からだけでも完全に破綻しており……。

(2020年3月7日追記)


 
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