繁殖牝馬の適齢期
間もなく競馬の祭典「日本ダービー」ですが、歴代ダービー馬の中で、ミナミホマレとキズナが持つ記録があります。何でしょうか?
答えは、最も高齢の母から生まれたダービー馬であり、母親が20歳の時の仔です。
一昨年の12月20日、JAIRS(ジャパン・スタッドブック・インターナショナル)のウェブサイト「海外競馬情報」(No.12-6)で、
「繁殖牝馬の将来の成功を左右する出生順についての研究(アメリカ)【生産】」
と題した記事が掲載されました。ここに書かれている内容について、今回はちょっと考察してみたいと思います。なお、青字はこの記事からの引用文言です。
「競馬関係者は長い間、繁殖牝馬は第2仔〜第6仔において最高の産駒を送り出す可能性が非常に高いと直感しており、それを研究により立証してきた」
この記事の冒頭部分の上記の日本語を読んだ際、優秀な競走馬は第2仔〜第6仔に多いという意味かと思ったのですが、
「繁殖牝馬自身が第2仔〜第6仔」のことを言っていることに気づきました。翻訳者には誤解を惹起しない表現を求めたいところです。
「立証」というものは厳密な統計解析をやり「有意差」を見出すことでなされるものですが、この記事全体を見るとそこまではされていないようなので、
「最高の産駒」などという表現にはかなりの誇張を感じます。
「過去50年間のケンタッキー州年度代表繁殖牝馬のうち35頭(70%)は第2仔〜第6仔として生まれている」
確かにそうなのかもしれませんが、世のサラブレッド全体のうち、その母親自身が第2仔〜第6仔である馬が占める割合は自ずと70%に近いのではないでしょうか?
この記事の最後に掲げられている以下の3つの表を見て頂きたいと思います。
@全繁殖牝馬の産駒競走成績
Aブラックタイプ優勝牝馬を母とする繁殖牝馬の産駒競走成績
B重賞優勝牝馬を母とする繁殖牝馬の産駒競走成績
@の出走頭数は188595(そのうち母親自身が第2仔〜第6仔の数は123837で66%)、Aの出走頭数は23000(そのうち母親自身が第2仔〜第6仔の数は14741で64%)、
Bの出走頭数は7072(そのうち母親自身が第2仔〜第6仔の数は4461で63%)です。つまり、これらによれば、世のサラブレッドの60%超が「母馬は第2仔〜第6仔」の範疇にあり、
上述を力説することに何の意味があるのか? と思ってしまうのです。
「概して、第7仔以降の牝馬において競走能力と同様に繁殖能力にも衰えが見られ始める」
高齢になれば受胎率は下がります。
よって、生産者の立場ならば受胎率の低い馬には超一流の種牡馬は選択しづらいでしょうから、そのようなことも含めた種々の要因が当然のことながら影響していると思われますので、
上記を説く根拠がいまいち乏しい気がします。
「第2仔あるいは第3仔として生まれた繁殖牝馬は、ブラックタイプ勝馬を最も高い確率(出走産駒の5.36%)で送り出している。
これは、2016年リーディングサイアーズランキングで4位・5位・6位のキャンディライド(Candy Ride)・キトゥンズジョイ(Kitten's Joy)・シティジップ(City Zip)
といった種牡馬のブラックタイプ勝馬率を上回る」
繁殖牝馬の産駒勝率と種牡馬の産駒勝率を比較すること自体に全くの無理があります。
「ヒトの場合、卵子は年齢とともに劣化し、高齢の母親のもとに生まれた子はより高い確率で健康問題を生じがちであることが実証されている」
卵子は年齢とともに劣化することは人に限ったことではありません。哺乳類全体にも当てはまるはずです。
ただし、「劣化」と聞くとちょっと大袈裟にとらえてしまいそうですが、その度合いこそが論点なのです。
先日読んだ『遺伝子・DNAのすべて』(キャット・アーニー 長谷川知子監訳 桐谷知未訳 原書房)には以下が書かれていました。
「女性の卵細胞は発生のごく初期に生殖細胞からつくられるが、精子は男性が思春期に入ったときから継続してつくられる。
じつは、あなたが生まれるもとになった卵細胞はあなたの母親がそのまた母親の子宮にいたときに減数分裂の第1段階に入っていたのだ。
これらの細胞は、染色体がコピーされて対になり、もつれて組み換えられたあと休眠状態になっている。
分裂の最終段階が引き起こされるのは、女性が排卵し、受精する(またはしない)卵子を放出するときだ。
あまりに長いあいだもつれた状態で保持されているので、特に小さい染色体の場合、染色体の対がうまく分かれにくいことがある。
ときには、染色体の余分なコピーが1本加わった卵子ができる。こういう卵子が受精すると、その染色体を3本持つことになり、ダウン症候群などが生じる可能性がある」
劣化の度合いが高い卵子が受精する確率は低く、仮に受精しても流産率も高いと推察されます。
人のダウン症は、そのような不受胎や流産を免れた例だと思いますが、産業動物たるサラブレッドの場合は、まず競走馬として使えるかの選別の段階でそのような非健常馬は淘汰されます。
つまり、高齢の母馬から生まれ競走馬として成立する仔の絶対数は相対的に少ないのかもしれませんが、
母が高齢でも一旦健常に生まれた馬と若齢の母から生まれた馬との違いを論じる価値は思ったほどないような気がするのです。
「DNAのメチル化は、後成遺伝学分野において最も重要なテーマの1つである。後成遺伝学は、ヒトの寿命において遺伝子が個人の環境にいかに反応するかを研究する学問である。
時間が経つにつれて、メチル基がDNA分子に付加することがある。全体的な塩基配列は変化しないが、影響を受けた遺伝子の機能は変化することがある。
高齢繁殖牝馬は、その年齢が原因でDNAが変化する可能性が高い。それゆえ、高齢繁殖牝馬の仔はこの変化したDNAを受け継ぐ可能性がある。
高齢繁殖牝馬の仔は身体的に健康そうであっても、突然変異のあったDNAを有している可能性がある。
それは、競走能力に作用する速筋線維・遅筋線維に影響を及ぼす遺伝子の突然変異のようなものかもしれない。
筋線維のわずかな変化でも、コンマ1秒差で勝敗が決まるレースでは大きな影響をもたらすことがある。
この研究の場合、DNAの突然変異は、遅い出生順の繁殖牝馬が仔馬に劣化したDNAを伝え、その結果として仔の競走成績の低下を潜在的にもたらすことを意味している」
ここで言っている「後成遺伝学」とは「エピジェネティクス」のことであり、日本においてもそのように言った方が通じます。
私は母系の重要性のキーファクターのひとつに「エピジェネティクス」を掲げており、これについては拙著『サラブレッドの血筋』でも論述しました。
いずれにしても、上記はあまりに言い過ぎです。こじつけにも近いような印象を受けます。
全ては度合いの問題ですし、生命体に有意に影響する突然変異がそんな頻繁に起こるとは思えません。
また、「エピジェネティクス」と「突然変異」は全く別の生命現象であり、同時に論じるべきものでもないということです。
一方で上述の表ABを眺めると、確かに繁殖牝馬自身が、この記事が力説するところの第2仔、第3仔あたりに生まれてきた場合に優秀馬を沢山産む傾向はあるのかもしれません。
実は、私自身も昔から母馬は若ければ若い方が良いとは思ってきました。母体は若いほど胎仔にきちんと栄養等の補給ができるということも確かにあるでしょう。
しかし、高齢の母でも、前回出産後の肥立ちを考慮したか否かによって違う結果が出ることもあるはずです。
そのように多方面から考えていけば、繁殖牝馬の適齢期や生まれた順番などというものは単純に結論は出せるものではないということであり、
継続的な研究や新たな学術報告に期待したいところです。
いくつもの専門用語やデータを引用した論述はついつい信憑性が高いような気がしてしまいます。
肝要なのは、どこまでが本当でどこからが根拠のない内容なのかを判断することです。
特に生産者の方々においては、今般のような記事には一旦立ち止まってその内容を自らじっくりと吟味して頂ければと思いますし、
私としては、今後も引き続き科学的な視点から種々の検討をさせて頂ければと存じます。
(2019年5月11日記)
戻る