小説 『ミトコンドリア……偉大なる母の力』
自称「B級科学者」の私は、堅苦しい生物学の話をひとりでも多くの方に分かり易く伝えていきたいと常に思っているのですが、
ふと、以前、理系的な発想に基づいた短篇小説対象の文学賞たる「星新一賞」に
『ミトコンドリア……偉大なる母の力』と題したものを応募し、当然のごとく落選したことを思い出しました。
私なりに一生懸命書いたのに、このままお蔵入りなのも残念……と思い、恥ずかしながら以下に掲載することとしました。2年前(2019年)が舞台背景です。
読んで下されば嬉しいです。
……………………………………………………
「ハマの大魔神の佐々木 (脚注1) も馬主なんだって?」
「そう。あの人、すごく運がいいんだよ。持ってた馬のうち、3頭がジーワン(GI)を勝っちゃった」
「ジーワンって、大レースのことだよね?」
「競馬のレースにはグレードがあって、最高のグレードのレースだよ」
「ダービーとか?」
「そう。そして、この3頭だけど、全部同じ母親なんだよ」
「きょうだいってこと?」
「競走馬で『きょうだい』って、母親が同じ馬を言うんだけど、ヴィルシーナとヴィブロスっていうメス馬は、父親がディープインパクト」
「ディープ……有名だよね」
「シュヴァルグランっていうオス馬は、父親が違ってハーツクライっていう馬」
「異父きょうだいってこと?」
「馬の世界は人間と違って、種馬をころころ変えるから、異父きょうだいは茶飯事だけどね」
「でも、父親が違っても、ジーワンを勝つってことは、母親のパワーがすごいんじゃない?」
「いいところに気づくね! その母親はハルーワスウィートっていうんだけど、その遺伝力がオレはすごいと思ってるんだよ」
「きのうの、皐月賞 (脚注2) だったっけ? アナタが絶対に勝つって言ってたサートゥルナーリアは、やっぱり強かったわね」
「着差はそれほどじゃなかったけど、完勝だったな」
「サートゥルちゃん、大魔神の馬みたいに、ふたりのお兄ちゃんもすごかったんだよね?」
「エピファネイアとリオンディーズって馬なんだけど、どっちもジーワンを勝ってる」
「三兄弟が東大に入ったって感じ?」
「まあね。たださぁ、大魔神の場合よりももっとすごくてさぁ、この三兄弟、ぜーんぶ父親が違うのよ」
「なんか、すごいけど、不思議……」
「3つとも違う精子を使ってジーワンを勝つ馬を3つも産むってハンパじゃないね。ちょっと信じられない」
「母親のパワー炸裂?」
「母親のシーザリオ (脚注3) っていう馬がすごすぎるよ。あの馬は競走成績も素晴らしかったけど、その血はただものじゃないな。そこに何かが蠢(うごめ)くものを感じる……」
「じゃあ、特定の能力がある母親からは、その能力のある子供が必ず生まれてくるってわけ?」
「そんな単純な話じゃないよ。ただ、オレはね、このシーザリオとその仔たちを見てると、体力や知力っていう生物の特定の能力を子供に伝える力は、父親とは比べものにならないくらい母親の影響が大きいと思ってるんだよ」
「でも、遺伝子って、父親と母親からはちょうど半分ずつもらうんだよね?」
「それは間違いない。ただね、母親からしか授からない別の遺伝子もあるんだ」
「どこにあるの?」
「ミトコンドリア……」
われわれは「呼吸」をしている。
呼吸とは、酸素を利用することにより、体内にある炭水化物や脂肪、タンパク質などの有機物からエネルギーを取り出して、
アデノシン三リン酸(通称「ATP」)という物質を合成することである。
高いエネルギーを蓄えたATPは「エネルギーの通貨」として、生きていくためのエネルギーを体内で受け渡す役割を果たしている。
つまり、ATPとはまさしく「スタミナ源」であり、これの合成が行われている場所が、誰でも一度は学校の授業で聞いたことがあるはずの、ちょっと奇妙な響きの、
この細胞内小器官……。
「細胞の中に核がある、って言って、イメージ湧く?」
「馬鹿にしないでよ」
「遺伝子ってのはさ、細胞の核の中のDNAにあるんだけどさ、遺伝子の半分は父親から、もう半分は母親からもらうのは知ってのとおり」
「うん」
「つまり、おやじが持つ遺伝子の半分を乗っけた精子と、かあちゃんが持つ遺伝子の半分を乗っけた卵子が合体して、われわれはめでたく誕生したわけ」
「そうね……」
「ところがなんだけどさ、その核以外にもね、ミトコンドリアにも別の遺伝子があるんだよ」
「そんな話、初めて聞くわ」
「このミトコンドリアの遺伝子ってのはさ、実はさ、かあちゃんからしか授からないんだよ。『母性遺伝』って言うんだけどさ」
「それも初めて聞く」
「精子と卵子にはそれぞれのミトコンドリアがあるんだけど、このうち、精子のミトコンドリアの遺伝子は最後は消えちゃって、
卵子のミトコンドリアの遺伝子だけが子に受け継がれていくんだよ。不思議だろ?」
「なんか奇妙……」
「なんで精子のミトコンドリアのだけが消えちゃうのかだけどさ、これはね、精子が卵子に向かって一生懸命に泳いていく時、
その鞭毛(べんもう)が、つまりおしりに付いているあの長い毛がかなり激しく運動するんでさ、疲れ果てちゃって、スタミナ供給源のミトコンドリアの遺伝子はさ、
かなりボロボロになっちゃうのよ。これをそのまま受精卵が持っちゃったら、生まれてくる子が不健康になっちゃうから、精子のミトコンドリアの遺伝子だけを集中的に抹殺する、
っていうのがいまの生物学の考え方なんだよ」
「ふぅーん、それって、まさしくプログラムされた『自然の摂理』ってわけね」
「このことだけでも、生き物のしくみって、ほんと、すごいよな……」
「じゃあアタシは、自分の子供にアタシのミトコンドリアの遺伝子をあげることができるけど、アナタは不可能ってことか」
「しょせんオレも生き物だから、自然科学の確たる現象には逆らえない……」
「世の男性の皆さまがたは、働いて、働いて、働いて、働いて、働いて、そしてう〜んと働いて、その果てにはポイッと捨てられてしまう、って感じかな?」
「バカなこと言うなよ!」
「そうそう、だいぶ前だけど、葉月里緒菜って人が主役の『パラサイト・イヴ』っていう映画があったみたいだけど、そういえば、あれはミトコンドリアの話だって聞いたことがあるわ」
「おぉ、あの映画か。あの原作者の瀬名って人、ミトコンドリアの研究者なんだよ。あの原作は500ページ以上あるんだけど、それを2時間の映画にまとめるのは無理がちょっとあって、うわっすべりするシーンもかなりあるけどな」
現在の生物学では、ミトコンドリアはもともとは別の生き物で、より大きな生物である「細胞」がミトコンドリアの祖先の生物を取り込んだものと考えられている。
映画『パラサイト・イヴ』では、このミトコンドリアが息吹を得て、独立した生命体として自らの解放を訴え、さらには核の奴隷化をもくろむ……。
「ミトコンドリアも独自のDNAを持って、そこには少ないながらも確かに遺伝子があるってことは、つまりさ、ミトコンドリアはもともとは別の生き物だったんだってことなんだよ」
「それってSFじゃない」
「まあ、『パラサイト・イヴ』自体がSFに仕立てられちゃってるんだけどさ、20 億年前にね、
より大きな生き物である『細胞』がミトコンドリアの祖先の生き物を取り込んじゃったんだ」
「実際の科学なんだか、SFなんだか、分からなくなってきた……」
「でもね、 遺伝子のさ、質っていうよりも量を考えるとなんだけど、ミトコンドリア自身をつくる物質、つまりタンパク質だけどさ、それをつくりあげる作業や、
その機能を継続するプログラムの構築に関わってるのはさ、そのミトコンドリアが自分で持っている遺伝子よりも、部外者たる核の遺伝子の方がはるかに多いんだよ」
「どういうこと?」
「これはね、さっき言ったように、ミトコンドリアの祖先の生き物がさ、まさしく寄生虫のごとく『細胞』に侵入しちゃったあとにさ、自分をつくりあげたり、
自分が活動するための具体的な設計図たる遺伝子のほとんどを、細胞の核の中に押し込んじゃったのよ」
「生きるためのややこしい作業は核に押しつけちゃったってこと?」
「おぉ、的を得てるね」
「そっか! ミトコンドリアは、自分の体をつくったり動かしたりすることを全部核に押しつけちゃったわけか……。なんか、家事をすべて女に押しつける男どもみたい!」
「でも、ミトコンドリアの遺伝子は女からのじゃないか」
「まあそうだけど」
「これはね、1970年代に、生物学者にリン・マーギュリスって人がいたんだけど、その人が唱えた『細胞内共生説』っていうやつなんだよ。
オレたちのさ、細胞の中にはさ、複数の生き物がうようよと生きてるんだよ!」
「ちょっと気持ち悪い……」
「ハハ。この考えがいまの生物学の主流でさ、つまりさ、ミトコンドリア自身の実際の機能の発現はさ、
核の中の遺伝子とミトコンドリア自身が持つ遺伝子の『協働作業』によるってことなわけ」
「家事も分担するのは当然のように……だわね」
「でも、ミトコンドリアは、重要な遺伝子だけは核に受け渡さなかったとオレは思っている……」
「遺伝子」は「DNA」の上に存在する。遺伝子とは「情報」であって、DNAとはそれを載せた「メディア」と喩えると、イメージが湧くかもしれない。
ミトコンドリアのDNAは、1968年にバーゼル大学のゴットフリード・シャッツ教授によって発見された。たかだか半世紀前のことである。
「きのうのダービー (脚注4) 、サートゥルちゃん、負けちゃったね……。走る前にだいぶイライラしてたみたいだけど、あれじゃスタミナ消耗しちゃうわよね」
「あの激しい気性は母親のシーザリオからの遺伝だな……。どうしても優秀な競走馬は気性が荒いんだけど、シーザリオもそんな馬だったんだよ。『諸刃の剣』だね。
父親が違う兄たちも似たような感じだったからな……」
「勝った馬、ロジャーバローズって言ったっけ? その馬のお母さんの血筋はどうなの?」
「リトルブックっていうイギリス生まれの馬。現地では 10 回走ったんだけど、一度も勝てなかった。
でもね、父親は違うんだけど、この馬の姉にドナブリーニっていう馬がいて、その娘がジェンティルドンナっていうすごい馬。
ジーワンを7つ勝っちゃって、競馬の殿堂入りもしてるんだ」
「ってことは、従姉(いとこ)がすごい馬ってこと?」
「そう。リトルブック自身は競走馬としては目を引くものはなかったけど、この馬を輸入した牧場は、その『母系』に感じるものがあって、なんとかセリで落としたってわけ」
「お母さん自身の競走成績はぜんぜんだけど、その一族にすごい馬がいたってことか……」
「そう。だから、このリトルブックも、ロジャーバローズも、ジェンティルドンナと同じミトコンドリア遺伝子を持ってるってことになる」
「なるほどね」
「この母親から母親へのさかのぼる系統、つまりこの母系はね、『16号族』って言うんだよ」
「何それ?」
サラブレッド個々にはファミリーナンバーというものが付されている。これは、19 世紀の終わりに、オーストラリア人の血統研究家であるブルース・ローが、
『フイガー・システムによる競走馬の生産』と題したもので発表したものであり、その母系をさかのぼればたどり着く祖先たる根幹牝馬ごとに番号を付して、
母系を 40 以上に分類したものである。そして、そのナンバーによって、活躍する馬の特徴や頻度が違うことを唱えた。
「ちなみに、サートゥルちゃんは何号族?」
「そうだ、ロジャーバローズと同じ 16 号族だ!」
「なら、同じミトコンドリア遺伝子を持ってるってこと?」
「理論上はそうなんだけどね。でもね、ミトコンドリアの遺伝子は、核の遺伝子よりも 10 倍も変異のスピードが速いって言われてんだよ。
だから、16 号族の馬同士なら、ミトコンドリアの遺伝子の基本的な部分は同じでも、微妙に違ってきてるわけだわな」
「ふぅ〜ん」
「この 16 号族の馬たちは、系図上では膨大な数になってるからさ、いまでは枝番が付けられて、ジェンティルドンナやロジャーバローズの一族は 16 の f で、
シーザリオ、サートゥルナーリアは 16 の a」
「同じ民族でも地理が別々のところに長い間いると、微妙に体つきや顔かたちの特徴も変わってくるって感じ?」
「まあ、そんな感じかな」
「そっか、人間の家族に例えたなら、お母さんと子供たちは同じファミリーナンバーだけど、お父さんだけは違うファミリーナンバーだってことね!」
「悲しいこと言うなよ……」
「仕方ないじゃない。それが私たち『生き物』の宿命なんだから」
「同じ母系なら、馬も人間も、基本的にはみんな、同じミトコンドリアの遺伝子を持っている……。そう思った時、何か奥深い生き物のロマンを感じちゃうんだよな。
『ミトコンドリア・イヴ』って聞いたことある?」
「アダムとイヴと似たような話?」
1987年、分子生物学の権威であったカリフォルニア大学のアラン・ウィルソン教授らが科学雑誌『ネイチャー』に発表した論文によれば、
世界各地の現代人からミトコンドリアのDNAを採取し解析した結果、全ての現代人は、20 万年前にアフリカにいた女性を母系共通祖先としているという衝撃的な報告があった。
つまり、あなたも、私も、明らかに人種が違う遠くの大陸の皆さまも、各々が自分のお母さん、そのお母さん、そしてそのお母さん……と延々とさかのぼれば、
みーーーんなこのアフリカ女性にたどり着くというセンセーショナルな説が『ミトコンドリア・イヴ』である。
「『世界は一家、人類は皆きょうだい』ってどこかで聞いたことがあるけど、まさしくそういうことね。
でも、人種もまちまちだし、世界中の人たちは、みんなぜ〜んぜん違ってきてるのに……」
「サートゥルナーリアやロジャーバローズは16号族だけどさ、じゃあ、16 号族の馬が全て優秀かというと、そんなことは絶対にない。
もしも、サラブレッドの競走能力と、母性遺伝するミトコンドリアの遺伝子が深く関係しているという説を貫こうとすると、どこかで矛盾が生じちゃう」
「そうだね」
「でもね、ミトコンドリアの遺伝子の進化、つまり変異するスピードは、核の遺伝子が変異するスピードよりも 10 倍も早いから、同じ 16 号族でもさ、
シーザリオのあたりですごい変異が入ったのかも。ジェンティルドンナとロジャーバローズも、母親の母親が共通なわけだけど、そのあたりですごい変異が入ったのかもね。
そう考えると、サラブレッドの競走能力と母性遺伝をリンクさせる考え方は成立してくるんだよ」
「ちょっと強引かもしれないけど、確かにそうかもね」
1頭の牝馬が生涯に産める数はせいぜい 10 頭余りである。
超一流の種牡馬がいたとして、選りすぐりの素晴らしい牝馬を、この種牡馬の種付け相手として 10 頭余りを集めてみても、果たして複数の一流馬を輩出することができるだろうか?
つまり、1頭の牝馬が複数のGI馬を産むということは、にわかには信じ難いことなのである。
それも、ハルーワスウィート、シーザリオのように、別々の種牡馬を相手にということは……。
「おとといのイギリスのダービー (脚注5) も、きのうのフランスのダービー (脚注6) も、勝った馬のお姉さんにジーワン馬がいるんだけど、やはりそれも父親が違うのさ。
もう、こうなるとさ、まさしく母性遺伝のすごさだよ」
「そうそう、ちょっと『ミトコンドリア』で検索したら、人間の場合、オリンピック選手のミトコンドリアDNA型は、特徴的な型に偏ってたって書いてあったよ」
「こないださ、遺伝子の進化たる変異は、ミトコンドリアでは 10 倍早いから、同じ 16 号族でもさ、シーザリオのような特定の系統にそんな変異が起きたかもって言ったよね?」
「うん」
「でもね、『アッ!』と思ったんだけどさ、世の中で言うところの『進化』ってのは、プラスの結果をもたらす変化のこと、
『退化』はマイナスの結果をもたらす変化のことをイメージして言ってるよね?」
「うん」
「でもね、ダーウィンの自然選択説のもとではね、進化と退化には何も差がなくて、退化っていう言い方自体がオレたち人間の勝手な価値観に基づいちゃって、
科学的にはあまり適切じゃないんだよね」
「ちょっと難しい……」
「例えばさ、オレたちが馬の能力についてああだこうだ言う時にだけど、『この馬には突然変異が起こった』って言った時って、だいたいが、
いつもプラスの変化のことを言ってるわけさ。人間にしてもさ、平凡な両親の家庭から東大に入っちゃう子供が出たりした時、トンビがタカじゃないけど、
『あの子には突然変異が起こった』って感じでさ。そうそう、ダンゴをつぶしたような顔のお母さんから、すっごい美人の娘が生まれた時とかも」
「その喩え、ちょっとひどい……」
「『変化』や『進化』を含む意味でいつも言っている『変異』っていうのは、生命体に対してプラスに働く現象の方がかえって少ないって、こないだ読んだ本に書いてあったんだけど、
確かにそのとおりで、うっかりしてた」
「じゃあ、すっごい美人のお母さんから、ブルドッグのような顔した娘が生まれた場合とか?」
「オマエこそ、ひどいこと言うな……」
「なによ!」
「つまり、同じ 16 号族でも、シーザリオのような特定の系統には、新たな変異が起こったというよりも、
変異があまり起こらなかったっていう逆の視点からの発想の方が信憑性があるような気がしてきたんだ」
「確かにそうね」
「……あれれ? 今年のイギリスダービー馬の Anthony Van Dyck も、フランスダービー馬の Sottsass も、たまたまだとは思うけど、これまた 16 号族だぞ!
基本的な部分はみんな同じミトコンドリアだな」
サラブレッドにファミリーナンバーを付し、ファミリーナンバーごとの能力の差を説いたブルース・ローだが、
その理論が発表された当時はまだ「遺伝」のしくみなど未解明であり、「遺伝子」という概念さえなかった。
オーストリアの司祭であったメンデルが遺伝の法則 (脚注7) を見出したのは、ブルース・ローが『フィガー・システムによる競走馬の生産』を発表する前の時代であったが、
あまりに斬新な思考に基づくものであったので、当時の生物学界はこれに対して全く見向きもしなかった。
メンデルの研究成果が確かなものであることが、のちの科学者により再確認され、ようやく脚光を浴びたのは、彼の死後の 20 世紀に入ってからである。
さらに、ミトコンドリアの遺伝子は母性遺伝することが解明されたのは、ごくごく最近の話なのである。
「やっぱりすごいと思うのはさ、ブルース・ローは、科学的にはまだまだ発展途上のそんな時代であっても、母系の威力にすでに感づいてたってことなんだよ。
このナンバーの母系からは、競走馬として優れたのがたくさん出る、このナンバーの母系のオス馬は、種馬にしたら成功する確率が高い、って感じでね。
確かにその考えには極論もあったんだけど、着想の原点は間違ってないよね」
「確かに、そうね……」
「この本、見てよ」
「なんか堅苦しそうな本ね。『ジェネラル・スタッド・ブックの歴史』 (脚注8) ?」
「ネットの古本屋で見つけて買ったんだけどさ、こんなことが書いてある。
『通常の染色体は、雄の場合であれ雌の場合であれ自由に分離し結合するものであって、各染色体が同一行動をとるわけではない。
この事実によって、競走馬を良くしたり悪くしたりする質的な要因が雌の直系の中に永久に残されてゆくという、ブルース・ローの主張は全く無意味になってしまったのである』
これって、1937年に血統研究家のJ.B.ロバートソンっていう人が雑誌に書いた記事らしいんだけど、これを見ると、
20 世紀に入ってからメンデルの法則がかなり浸透したことが分かるんだよな」
「この『自由に分離し結合する』という表現がちょっと変だね」
「これによって、母系ごとの能力差を主張したブルース・ローの理論は打ちのめされちゃったんだけど、時は流れに流れて、いまではさ、
そのロバートソンの主張こそ全く無意味なものになっちゃったわけ」
「母性遺伝するミトコンドリア遺伝子の発見?」
「そのとおり。残念だけどその時代に、ロバートソンはミトコンドリアっていうエネルギー生産工場にも遺伝子があること、
そして母性遺伝をするその遺伝子はメンデルの法則の対象外であることなんて知る由もなかったってわけ。
さらには、『マターナルRNA』のような母性遺伝を裏づける別の発見もあるわけ」
「何それ?」
「卵子の細胞がつくられる時には既にね、精子と卵子の遺伝子が組み合わさった『受精卵のゲノム』とは独立して、最初から母親由来のマターナルRNAなるものが組み込まれていて、
それの指令で、どうも通常のDNAにある遺伝子の働きがコントロールされているかもしれないっていう新しい説。『マターナル』って『母親の』の意味だよ」
「日進月歩だね」
「つまり『科学』ってのはさ、きのうは正しいとされてたことが、今日は間違いとされちゃうことの繰り返しってことなんだよな……」
「ある意味で残酷だね。現代に生きるアナタは、ロバートソンさんがちょっと前の時代に生きていたというだけで、その考えを粉砕しちゃうんだから」
「だから、オレの理屈も、オレたちの子供たちに粉砕されちゃうんだよ。そんなことが繰り返されて、われわれ『生き物』の歴史は紡がれている……」
「でも、確かに、そのブルース・ローさんの洞察力はすごいね」
「まさしく『慧眼』だな……」
「そうそう、『パラサイト・イヴ』では、ミトコンドリアが細胞の核を奴隷化しようとしたんだよね?」
「そうだったな」
「いま、蔦屋に行ったらDVDあるかな?」
「あの映画、ちょっと古いから、どうかな」
「核を奴隷化するのって、かなり興味が湧いてきた!」
「……どういう意味だよ?」
「アタシの体に流れているミトコンドリアの遺伝子は、アタシのお母さんからもらってるんだよね?」
「そりゃそうだ」
「馬も人間も生きるための全てのパワーは、ミトコンドリアが源なんだよね?」
「全て……じゃないぞ」
「いいえ、そうなんです。アタシたちの子供の世代が、それが間違いないと科学的に証明するはずです」
「おい……」
「男は細胞の核のようなもので、しょせんはミトコンドリアの奴隷。奴隷は何でも言うこときくのよ。そうそう、馬をたくさん持ってる大魔神佐々木だって、
奥さんの榎本加奈子に敷かれてるような気がする。だから大成功してるのよ!」
「話がすっ飛ぶね……」
「ねっ、だからぁ、ハネムーンはゼッタイにニューカレドニア。子供は2人で、アナタはきちんとイクメンして下さい。育休は会社にきちんと事前ネゴしておくこと!
料理も腕を磨いてちょうだい。カレーもつくれないなんて論外。
上の子が小学校に上がるくらいには、郊外に小さくてもいいから庭のある一戸建てを買って、ユズの木でも植えましょう。
ジャムにするのも美味しいかも。車の種類は文句は言わないけど、ブルー系は避けて。近くてもいいから2年に1回は海外旅行、でお願いするわよ。いいわね?」
「……」
「はっきり答えてちょうだい! いいわね?」
「はい……」
「そうそう、きのうのジーツー(GU)の神戸新聞杯。
サートゥルナーリアはダービーから4ヶ月ぶりだったけど、騎手のルメールさんは直線でムチも入れずに3馬身もぶっちぎって、すごかったわね!
次は菊花賞じゃなくて、古馬路線 (脚注9) の天皇賞かジャパンカップに行くのかな? 楽しみだわね〜」
「おい、オマエ、いつのまにのめり込んでるんだ……!」
「もう、私のこと、奴隷みたいに『オマエ』って呼ぶのはやめて下さい!
そんな時代遅れな呼び方してるカップルいないわよ。それよりも、『アヤコ、愛しているよ』って言ってくれたことある?」
「……」
「なに黙ってるのよ。さあ、言いなさいよ!」
(オレはこの時、『パラサイト・イヴ』の最後に、「結局、ミトコンドリアの暴走を止めることはできないのではないか?」って書いたあったことを思い出していた……)
(脚注1) 佐々木主浩氏。元プロ野球投手。
(脚注2) 日本のGIレースであり、3歳馬限定の「クラシックレース」の1つ。
(脚注3) 日米の双方でGIレースを勝った名牝(=優れたメス馬)。
(脚注4) 日本のGIレースであり、3歳馬限定の「クラシックレース」の1つ。「日本ダービー」は通称であり、正式名称は「東京優駿」で、競馬に携わる者 (ホースマン)が最も憧れるレース。
(脚注5) 各国の「ダービー」は近代競馬発祥国であるイギリスのダービーを倣ったもの。「The Derby」と言えばイギリスダービーを意味するが、その正式名称は「ダービーステークス(Derby Stakes)」。
(脚注6) 「ジョッケクルブ賞(Prix du Jockey Club)」がフランスのダービーに該当する。
(脚注7) 「メンデルの法則」と呼ばれるもので、「優性の法則」「分離の法則」「独立の法則」の3つがある。
(脚注8) 「ジェネラル・スタッド・ブック」とは本場イギリスのサラブレッドの血統書。
(脚注9) 古馬(こば)とは4歳以上の馬。サラブレッドの歳は毎年1月1日に加算される。
……………………………………………………
以上です。あらためて読み返してみるとかなり気恥ずかしいですが、また機会があればいろいろなジャンルに挑戦していきたいと思っております。
(2021年5月1日記)
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