『サラブレッドの血筋』第4版から: 母系の意義(その1)
『サラブレッドの血筋』の第4版のサブタイトルは、第3版と同じく「偉大なる母の力」としました。本書の冒頭にも書いたのですが、
私はサラブレッドの血統の探究において母系(牝系)の重要性を大きな仮説に掲げていることから、このようなサブタイトルとしたということです。
内容の前段は我が論述、後段は今世紀生まれの全GI馬を網羅した母系樹形図という構成です(後段と言えど、樹形図は本書全体のページ数の8割を占めます)。
論述部分は以下の内容としました。
第1章 母系の意義
第2章 近親交配と遺伝的多様性
第3章 遺伝の話あれこれ
第4章 今後の生産界
この各章では私が伝えたいことをいろいろと記述したわけで、つまり本書を手に取っていただいた方々以外にも広く伝えたい事柄も少なくありません。
よって本コラム欄では、その中の各要点を個別に取り出し、そこに補足を入れながら連載していければと考えております。
まず「第1章 母系の意義」は、以下の小見出しの各項で構成しました。
1.1 ボトムライン
1.2 母性遺伝をするミトコンドリアの遺伝子
1.3 細胞内での協働
1.4 進化と退化
1.5 女性の長生きと長距離ランナー
1.6 ミトコンドリア・イヴ
1.7 トレーニングで増やせるミトコンドリア
1.8 我が母系樹形図
1.9 多数のGI馬を出す牝系
1.10 突然にGI馬を何頭も出し始める牝系
1.11 違う種牡馬を相手に複数のGI馬を産む牝馬の多さ
1.12 GI馬となる確率
1.13 名牝を母に持つ名種牡馬
1.14 牝馬はY染色体を持たない
1.15 父系の探究に科学的意義は見出せない
1.16 アーニング・インデックスの信憑性
1.17 ディープインパクト産駒のGI馬の母系
1.18 Galileo 産駒のGI馬の母系
1.19 ディープインパクト産駒と Galileo 産駒の比較
1.20 ディープインパクト産駒および Galileo 産駒のGI馬のきょうだい
1.21 トップサイヤーの交配相手
1.22 繁殖牝馬の適齢期
1.23 高齢で存在価値を示す名牝
1.24 偉大なる母の力
この第4版は既版で論述したことの再確認や新しい知見に基づく継続版の位置づけであり、よって既版の内容の再掲もあります。
また、一昨年には出版社(星海社)から『競馬サイエンス 生物学・遺伝学に基づくサラブレッドの血統入門』を上梓しましたが、そこに記述したことも掲載しています。
これは、私が論じたいことはそれほど多岐にわたらず、繰り返し論じながら深掘りしていきたいことばかりであるからです。
導入として、以下に第1章の最初の2つの項で書いたことを転載します。
1.1 ボトムライン
血統表の最下段、つまりボトムラインを注視する意義を考えたことはありますか? セリ名簿には、上場各馬の同母系内近親の活躍馬が掲載されていますが、
なぜそこに掲載されているのは同じファミリーラインの馬ばかりなのでしょうか?
父の父の父からも、父の父の母からも、父の母の父からも、父の母の母からも、母の父の父からも、母の父の母からも、母の母の父からも、母の母の母からも、
同じ量の染色体上の遺伝子をもらっています。それなのになぜ? これに疑問に思ったことはないですか?
1.2 母性遺伝をするミトコンドリアの遺伝子
人や馬といった動物は「呼吸」をしていますが、これにより取り込んだ酸素を用いて有機物を無機物まで分解することにより、
体内でエネルギーの分配を行う物質(「エネルギーの通貨」という喩えがよく使われます)であるアデノシン三リン酸(通称「ATP」)を合成しています。
この合成を行っている場所こそ、おのおのの細胞内に鎮座するミトコンドリアであり、つまりそこはエネルギーの生産工場なのです。
細胞において通常の遺伝子は核の中のDNA上に存在しますが、ミトコンドリアも独自のDNAを持ち、そこには少数ながらも遺伝子が存在します。
このことから、ミトコンドリアは元来は別の生物であり、約20億年前にミトコンドリアの祖先の生物が、
より大きな生物である「細胞」の中に入り込んでしまったものと考えられています。
このミトコンドリアのDNA(遺伝子)は母親からのみ授かります。これを母性遺伝(母系遺伝)と言います。
じつは、精子にもミトコンドリアはあるのですが、精子のミトコンドリアは受精後に特別な作用を受けて分解され、消滅してしまうのです。
以前読んだ文献では、精子は卵子に向かって泳いでゆく際、その鞭毛(べんもう)が激しく運動するために疲れ果ててミトコンドリアのDNAはかなりの損傷を受けており、
これをそのまま受精卵が保有したら健康な子孫をもうけることができないので、精子側ミトコンドリアのみ敢えて排除してしまう「自然の摂理」である旨が書かれていました。
ミトコンドリアDNAの異常は様々な疾患につながり、ミトコンドリアDNAが世代を超えて正常に維持される仕組みの解明は重要であり、
昨年(2024年)に発表された論文では、受精後に父親由来のミトコンドリアが自食作用(オートファジー)によって選択的に除去されてしまうこと、
そしてこの過程には特異的なタンパク質が関与していることが報告され、そのタンパク質の役割などを含めた母性遺伝のメカニズムが具体的に解明されつつあるようです。
ちなみに、その論文は「ALLO-1- and IKKE-1-dependent positive feedback mechanism promotes the initiation of paternal mitochondrial autophagy」
であり(doi:10.1038/s41467 -024-45863-2)、興味のある方は直接読んでみてはいかがでしょうか。群馬大学と徳島大学の共同研究によるものです。
では、続編はまた後日に。
(2025年12月8日記)
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