失われる遺伝的多様性
皆さんが「思い出に残る栗毛馬は?」と問われたとしたら、どの馬を挙げますか?
私の場合は、私をこの世界に誘(いざな)ったテンポイントだと迷わず答えますが、最近で印象が強いのはやはりオルフェーヴルでしょうか。
活躍した栗毛きょうだいならば、アグネスフライトとアグネスタキオン、ダイワメジャーとダイワスカーレットが思い浮かびますし、
たてがみが金髪のような尾花栗毛ではトウショウファルコ、トーホウジャッカルを思い出します。
ところで、最近の日本のGIレースでは栗毛の馬をあまり見かけなくなったな……と思った方もいるのではないでしょうか?
昨今の日本の大レースにおいてはディープインパクト産駒がやはり目につきますが、ディープインパクトの仔に栗毛系(栗毛および栃栗毛)は出現しません。
もしも栗毛馬をあまり見かけなくなったと思ったとしたなら、このことがその理由のひとつであることが十分に考えられるでしょう。
ディープインパクトのような鹿毛系独特の濃色を誘発する遺伝子を通常「E」と呼びます。
Eの対立遺伝子は「e」であり、E は e に対して優性(顕性)です。
各馬の遺伝子型は EE、Ee、ee のいずれかですが、栗毛系になるには遺伝子型が ee となることが絶対条件であり、遺伝子型 EE の馬は仔に遺伝子 E しか授けないため、
仔の遺伝子型は必然的に EE または Ee となり、絶対に栗毛系にはなりません。
このことから、ディープインパクトの遺伝子型は EE であると推定されるわけですが、マンハッタンカフェ、ロードカナロアなども同様です。
『サラブレッドに「心」はあるか』(楠瀬良 中公新書ラクレ)には、「日本競馬の歴史を変えたといわれるサンデーサイレンス。
その息子で種牡馬として大活躍したマンハッタンカフェは外見がうりふたつでした。ともに青鹿毛で流星鼻梁鼻白。
これだけ似ている場合は、親子関係の判定はDNA検査を待つまでもないような気もします」とありました。
確かに外見はそうなのですが、上述のとおりマンハッタンカフェの遺伝子型は EE と推定される一方で、
サンデーサイレンスは産駒にアグネスタキオンやダイワメジャーのような栗毛がいることから遺伝子型は Ee と断定でき、このように遺伝子レベルでは確かな相違があるわけです。
サンデーサイレンスのような遺伝子型 Ee の種牡馬が栗毛系牝馬と交配すると、その仔が栗毛系である確率は50%です(メンデルの「分離の法則」)。
しかし上述のとおり、ディープインパクト、ロードカナロアのような遺伝子型 EE の種牡馬と栗毛系牝馬を交配しても、その仔に全く栗毛系は現れません。
その例がまさしくジェンティルドンナでありアーモンドアイです。
面白い例がハルーワスウィートを母に持つ3頭のGI馬です。
父がディープインパクトのヴィルシーナとヴィブロスは、ジェンティルドンナやアーモンドアイと同じく父 EE 型に母栗毛なので、
絶対に栗毛にならないパターンだったのですが、父がハーツクライ(←遺伝子型 Ee の鹿毛)のシュヴァルグランは栗毛です。
以上、ちょっと前置きが長くなってしまいました。今回何を書きたかったかと言うと、例えば一部の種牡馬にあまりに人気が集中すると、毛色の割合にも見て取れるように、
その生物集団の形質(=生物的特徴)が著しく偏るということです。ちょっと専門的な言葉を使うと、「遺伝的多様性」が低下するということです。
遺伝的多様性については、環境省自然環境局の一機関である生物多様性センターの以下のサイトが参考になります:
遺伝的多様性とは何か
遺伝的多様性を守るために
上記の「遺伝的多様性とは何か」の方のサイトには以下が書かれています:
「生物の保全を行う上では、特に『遺伝子の個性の減少』が問題になることがわかってきました。
『遺伝子の個性の減少』した(=遺伝的多様性が低い)集団では、伝染病・害虫などに抵抗性を持つ遺伝子が失われ、すべての個体が同じ病気にかかったりします。
また、仔の死亡率が高まり、繁殖の成功率が低下したりします。
この現象は、近交弱勢とよばれていますが、その原因は遺伝的多様性の低下により、集団から遺伝子が失われることにあります」
A、B、Cという3つの遺伝子があり、各個体はそのどれか1つのみ持っていたとしましょう。
Aは或る伝染病に弱く、この遺伝子を持った個体はことごとく命を落とし、結果、BとCを持つ個体のみが生き残りました。
しかしBは別の伝染病に弱く、この遺伝子を持った個体も命を落としました。結果、Cを持つ個体のみが生き残りました。
時は流れに流れ、今度は別のDという遺伝子が変異により発生しました。
そこに新たなこれまた別の種の伝染病が猛威を振るい、Cを持つ個体はこの伝染病に屈し、結果、Dを持つ個体のみが新たな時代を生き延びました……。
突拍子もない喩えではありましたが、生物が生き延びる様式とはこのようなものだと思って下さい。つまり、遺伝的多様性をどれだけ持つかによって、
その生物種は未来を生き残れるかということなのです。
遺伝的多様性の低下をもたらす最たる行為は近親交配です。では、血統表を眺めてインクロスが少なければ良いのか? とも思ってしまいますが、話はもっと奥深いのです。
前回 も触れた競走馬理化学研究所の研究者諸氏の論文においても、遺伝的多様性の低下の理由として、
日本の生産界は配合相手の模索において特定の競走成績ばかりに着目し、その結果として特定の人気種牡馬ばかりがもてはやされることを仮説に掲げています。
つまり、直接的には血の繋がりが遠い馬同士であっても、似たり寄ったりの遺伝子構成になっていることが推察されうるのです。
京都大学総長の山極寿一氏は霊長類学者ですが、以前読んだ氏のコラム(2015年5月10日付の毎日新聞「時代の風」)には、
「性の季節はサルではオスに、類人猿ではメスに、親元を離れて血縁関係のないパートナーを作るように働きかけるのだ」とありました。
また、俗に「恋愛遺伝子」と呼ばれる HLA(Human Leukocyte Antigen・ヒト白血球抗原)遺伝子について、
『日本人の遺伝子』(一石英一郎 角川新書)には、
「女性は自分のHLA遺伝子ともっとも異なるHLA遺伝子を持った男性のにおいに魅力を感じるという結果になったのです」
とスイスのベルン大学で行った実験結果が書かれています。
このように自然界では、自らの種の保存のために、不自然な遺伝子構成にならないような仕組みがプログラムされているのですが、
人為的に配合相手を選別するサラブレッドはこのような仕組みの外側にいるということです。
生産界が、このような深遠な「遺伝子の在り方」を長期に渡って見誤ると、そう簡単に元には戻れなくなり、
ひいては日本のサラブレッド全体のレベルの問題にまで発展しうります。
ジャージー規則はなぜ撤廃されたか? なぜ「セントサイモンの悲劇」なる言葉が生まれたのか? いま一度立ち止まって考える必要があるでしょう。
(2019年7月15日記)
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