馬の売買契約書に思うこと(その1)

私は獣医師ではありますが、研究業務や動物の診療を行っているわけではなく、通常の姿は一介のサラリーマンであり、 日々のデスクワークでは知的財産に関する契約書を作成・審査し、必要に応じてハードな交渉の場に出向いています。

ちなみに、日々の契約業務を通して、私は数えきれないほどの弁護士と接してきました。 当たり前の話ではありますが弁護士と言えども人間であり、培ってきたキャリアもまちまちなので、その資質を含めて色々なキャラの先生方がいます。 獣医師にしたって、私のようなとんでもない奴がいるのと同じです……。

現在、世間を賑わせている芸人の闇営業事件。この報道において何よりも私が驚いたのは、吉本興業が芸人たちとは書面の契約を取り交わしていないということです。 さらに、心底驚愕したのは、今後も書面で取り交わす予定はないと吉本の経営トップが堂々と言い放ったことです。 先日聴いたラジオでは、テレビやラジオのギャラは事後に取り決めるのが通例のようなことを言っていましたし、 スマップの元メンバーの出演に対する圧力でジャニーズ事務所に公正取引委員会のお咎めが入ったように、この業界は通常の価値観では測れない特殊な構造なのが容易に想像できます。

では、我が競馬界、その中でも生産界はどうでしょうか?  「庭先取引」という言葉があるように、馬の売買においても適切な契約書が締結されない取引がまだまだ多々あるようで、 芸能界のありさまとは大同小異なのかもしれず、今回はこの話をちょっと書いてみたいと思います。

ざっくりと言えば、当事者間で特別に約束するものが「契約」で、その法的な成立の要件は「申込み」と「承諾」です。 例えば、あなたが私に「お駄賃100円やるからパン買ってこい!」という申込みをし、私があなたに「分かりましたよ……」としぶしぶでも承諾すれば、 双方が意思表示した事項が合致したこととなり、めでたく契約成立です! つまり、吉本興業のトップが言っているとおり、口頭でも契約は十分に成立するのです。

しかしです、皆さんも家族や友人とは「言った」「言わない」でトラブルになった経験がありますよね?  そのようなトラブル防止のためには証拠を残す必要があり、合意した内容を明記した「契約書」という「物」を残すわけです。

こちら はJAみついしのウェブサイトにある「軽種馬売買契約書」の雛形です。ちなみに日本軽種馬教会のウェブサイトにも同様のものがあることから、出所はみな同じと思います。 私がこの内容を見て思ったことはいくつかあるのですが、例えば以下です:

・第3条では代金は分割払いとなっているが、この全ての支払いが終了するかにかかわらず、第11条では契約締結日に馬の所有権は買主に移るとなっている。 果たしてこれで良いのか?

・第10条には買主の責に帰する場合の契約解除の要件が書かれているものの、生き物たる馬は通常の物品と違い、例えば若駒であれば日々の成長が著しく、 その馬体の「品質」は日毎に急速に変化する。 仮に契約締結後に買主の契約義務不履行があって売主が賠償責任を追及しようとしても、その馬体の「経時変化」に追随するにはかなりの困難があるはずであり、 買主の売主に対する補償(及び保障)義務をもう少し手厚く具体的に規定できないか?

独占禁止法の抵触行為に「優越的地位の濫用」というものがあります。例えば、大企業Aへの製品納入で成り立っている中小企業Bがあったとしましょう。 AがBに対して「Bが独自に創出した製造技術の知的財産(特許等を含む)の権利はAに帰属する」と規定した契約書の締結を強要するような行為がまさしくそれです。

取引先があっての中小企業、馬主様があっての生産者……。つまり、どんなに横柄で、どんなに理不尽な相手であっても、悲しいかな「大切なお客様」なのですから、 ゼッタイにそのご機嫌を損ねるわけにはいきません! 結果として、対等な権利を主張できるような契約書の締結は心情的にも常に困難を伴います。 上記の売買契約書の雛形の第13条には管轄裁判所までが規定されていますが、馬主側が全く義務を履行しなくとも、中小の生産者が裁判を起こすことなど稀有中の稀有でしょうから、 このような条項は「絵に描いた餅」にも等しいのです。本当に悲しい……。

しかし、そのような状況を看過し続けるわけにもいきません。 日本軽種馬協会や各軽種馬農協のような組織がこれらに関する啓発のイニシャチブを確実に取って頂きたいと同時に、 各生産者においても自衛の意味も含めて「契約」の在り方について確たる意識を持つ必要があるということです。

また、日本の生産界の海外との商取引がさらに活発化することも間違いないですし、 国際取引おいては、その権利と義務を明確に規定した契約書の締結は絶対条件であり、不利益のない契約内容にすることは言うまでもありません。

最後に、馬の取引に関する参考文献として、 軽種馬取引の法律問題(鍋谷博敏 北海道新聞社) を紹介しておきたいと思います。既に絶版のようですが、古本ではまだ入手できると思います。 この本ではいくつかの事件が引用されていますが、そこに出てくる調教師は誰? その牧場は? などとつい思ってしまうのです。

(2019年7月21日記)

馬の売買契約書に思うこと(その2)」に続く

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