吉田牧場への我が想い
3日前の4月2日、吉田牧場が火災という一報をもらい、ウェブ上の記事を見ると……。
私の中学校卒業の直前に天に召されたテンポイント。いつかは吉田牧場を訪問し、彼の墓参りをするのが当時の私の切な望みとなりました。
獣医学科の2年生の時、或る教授の授業に、年配ながらも熱心に聴講生として来られていた方がいました。
元は川崎競馬の職員で吉田一族とは遠縁とのことであり、是非とも吉田牧場に紹介してほしいと懇願し、勢い余って実習に赴いたのが1984年3月のことです。
テンポイントの墓前に合掌した時は感無量になりました……。そして目の前で見る父コントライトと母ワカクモ。
ワカクモは一本の筋がピシッと通った気性で、気にくわないことがあれば人の言うことを全然きかない。
その一方、ワカクモの娘でありフジヤマケンザンの祖母でもあるオキワカは非常に従順で、ちょっととぼけてて、とても可愛らしい馬でした。
当時の場長はテンポイントの生産者として脚光を浴びた3代目の吉田重雄氏で、社台の総帥であった吉田善哉氏とは 「はとこ」 の関係になります。
重雄氏は当時、このままでは血が行きづまるとの考えから、米最優秀古牝馬のタイプキャスト、英オークス馬のジネヴラ、
伊オークス馬のケルケニアという世界的名牝を次々と購入します。氏の生産に対する情熱が伝わってくるようです。
しかし、こちら でも触れましたが、当時の吉田牧場の繁栄は、
丘高(クモワカ)から流れる 「母の力」 が確かな基盤になっていたと私は疑いませんし、
あくまで私のごくごく個人的な気持ちにすぎませんが、クモワカ⇒ワカクモから流れる血をもう少し大切にできなかったのか?……とも思ってしまうのです。
ブリーダーが種牡馬事業に手を出すと、自己所有の牝馬の配合相手はどうしてもその種牡馬に偏ってしまいます。
そして……テンポイントという逸材の出現によりコントライトは人気種牡馬となります。
また、別途導入したマイスワローもそこそこの成功を収めたことから、結果として吉田牧場の馬の血の偏りが顕著となり、
コントライトとマイスワローの血で埋め尽くされてしまいました。
JBISサーチで、ワカクモ、オキワカ、タイプキャスト、プリテイキャスト、ジネヴラ、ケルケニアといった各名牝の仔を検索してみると、その状況が本当によく分かります。
そのような配合を続けていても、フジヤマケンザンのような馬は確かに出てきますが、牧場という単位で見ると、血の袋小路に入り込みます。
ふと思うのです、社台に追随すべく奮闘している日高のあの大手牧場も、そのような袋小路に入りかけてはいないでしょうか?
テンポイントの出現によりコントライトの血を過大評価してしまわなかったか?
プリテイキャストの出現により舶来母系をさらに過大評価してしまわなかったか? 年月を経て、いま私はそんなことさえ思ってしまったのです。
昭和の生産界を牽引した名門牧場も、残念ながら時代の流れには乗り切れませんでした。
吉田牧場の牧地の大半は現在、ノーザンファームの牧地となっています。今回の火災もノーザンファームの従業員が発見したと聞きました。
私は、2度に渡る吉田牧場での実習時、重雄さんの弟で繁殖担当の敬貴さんには大変お世話になりました。
その後も北海道に行った際は可能な限り訪問しており、昨秋の日高訪問時もちょっと顔を出そうかと思ったものの、
お互いの都合が合わず、次回ゆっくりと食事でもという話をしたばかりです……。今回の件が落ち着いたであろう頃に、あらためて連絡を取ってみようと思っています。
最後に、こちら は 『優駿』1985年6月号に掲載された私の投稿です。流氷を見に行った帰路に立ち寄った時のことを書きました。
また、こちら の画像はその年の夏、2度目の実習をさせて頂いた際の直検中のプリテイキャストとその娘と22歳の私です。
いま、懐かしさとか、お世話になった感謝の気持ちとか、いろいろな想いが押し寄せてきています……。
(2020年4月5日記)
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