近親交配(インブリーディング)と流産

こちら は今月11日の『BLOODHORSE』の記事で、その表題を訳せば「近親交配が流産の要因であることの発見」であり、 近親交配は妊娠後期に悪影響を及ぼす可能性が高いようなことが書かれています。

過日見たSNSでは或る方がこの記事と論文を紹介し、「近交度合いが高い牝馬は妊娠後期で流産する率が高い」ということを書いていたのですが、 もしもこれが本当であったなら、或る意味で画期的で新奇な発見となります。 「近親交配(インブリーディング)とは何か?(その9)」にも書いたとおり、 近親交配とは父方と母方から「同一の遺伝子」をもらうことを期待する行為であり、 つまり普段は顕性遺伝子に作用の発現を抑えられている潜性遺伝子がホモとなる (父と母から同時にもらって二重になる)ことにより、 この潜性遺伝子が導く特徴(生物学で言う「形質」)を顕性遺伝子に邪魔されないことを期待する行為ですが、 母馬たるその牝馬自身の近交度合い(近交係数)が高いことが原因であるならば、生まれ来る胎仔自身の近交度合いとは別次元の話、 つまり胎仔の遺伝子構成とはリンクしない話となるからです。

もし上記のSNS上のコメントが本当ならばどのような仮説が立てられるのかを考えました。 きつい近親交配は当然に生体に弊害を及ぼす可能性が高いので、そのような配合で生まれてきた牝馬が妊娠した場合、妊娠初期はなんとか胎仔を維持できるものの、 後期になるとその維持ができなくなる雌としての身体的弊害が先天的に備わってしまう率が高まるのだろうか?……などと想像したのです。

そこで早速、この論文 を読み込んでみました。 すると、「近交度合いが高い牝馬は妊娠後期で流産する率が高い」ということなど書かかれていないことがわかりました。 結論から言うと、妊娠後期で流産に至る可能性が高いのは、その牝馬自身の近交度合いの問題ではなく、 きつい近親交配のような配合で受胎した仔の近交度合いが高い場合であることをこの論文は報告しているのです。 流産の原因が母体側に在るのと胎仔側に在るのとでは話がまったく変わってきますので、要注意です。以下にその要点を整理してみます。

まず、この論文の こちら にある「fetal DNA」とは胎仔のDNAの意です。 つまりこれは、この研究は胎仔のDNAが分析対象となっているということであり、すると、母馬自身の近交度合いの話とは噛み合わなくなってしまうわけです。 この論文によれば、以下の3つのグループの近交度合いを分析・比較したとのことです。

 @妊娠初期(14-65日目)で流産した胎仔のDNA(採取個体数 37)
 A妊娠中後期(70日目以降)で流産した胎仔(および分娩後24時間以内に死んだ仔)のDNA(採取個体数 94)
 B3歳以上の「おとなの馬」のDNA(採取個体数 58)

ここで重要なのが、@とAに対する「対照群」がBということです。これがキーポイントです。 当論文では、このBだけに こちら のように「adult」という語を付していることは、 逆に言えば@とAのDNAは「おとなの馬」のものではないことを意味しているわけです。 言い換えれば、@やAの流産(死産)してしまった胎仔のDNAの組成と、Bの健常なおとなの馬のDNAの組成とのあいだには、どのような「差異」があるかを分析したのです。 すると、@とBのあいだには有意差はなかった一方で、AとBのあいだには有意差があったとのことです。 つまり、健常なサラブレッドたるBの値に比べて、Aの値は有意に高かったというわけです。

上記は私が要点をまとめただけであり、それ以外にも留意すべきことが当論文にはいろいろと書かれていますので、興味のある方は直接お読みいただければと思います。 ちなみに、馬や牛の個体の近交度合いを調査する場合に、その血統情報に基づく机上計算した近交係数を用いるのが汎用的である一方で、 今般の論文に係る研究はDNA上のホモ接合部分の長さを計測し、それが長ければ近交係数が高い(近交度合いが高い)と見なす手法が用いられています。 なお、なぜ近交度合いが高い胎仔は中後期になってから流産に至る率が高まるかということまではわかっておらず、 これについては将来の研究に委ねられているということでしょう。そこで、蛇足ながらもこれに対する私の仮説を以下に記してみます。

「きつい近親交配でなくとも、妊娠初期の流産は一定の割合で起こりうる。 他方、きつい近親交配の場合、常染色体潜性遺伝病の発症確率を高め、奇形を含む非健常な個体を惹起する確率が高くなる。 常染色体潜性遺伝病を発症するような邪悪な遺伝子をホモで持った場合、その胎仔はなんとかこの世に生を享(う)けようと母体内でできる限り頑張るものの、 やはり重篤なものは誕生まではこぎつけず、妊娠の中後期で脱落してしまう」

我が仮説の裏づけや見直しのためにも、これからも新たな科学的報告にはアンテナを張って参ります。

(2024年3月19日記)

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