科学的な思考(その4:反証主義)
今回は「科学的な思考(その3:心理は真理を保証しない)」の続編です。
科学は、「科学界における朝令暮改」に書いたように、昨日まで正しいと思われてきたことが、
今日の新しい発見により覆されてしまうことの繰り返しがベースとなっています。科学哲学者のカール・ポパーは、科学は常に反証できるものと唱えました。
『科学的思考入門』(植原亮 講談社現代新書)の「第6章 科学的に推論し、評価する」には、以下が書かれています(265-266頁)。
「反証主義とは、ある仮説が科学的であるためには、『反証可能性』がなければならい、とする考え方である。
反証可能性とは、文字通り何らかの仕方で反証ができることをいう。
この反証可能性の有無によって、科学とそれ以外の非科学・疑似科学との境界線を引く ―― それが反証主義を唱えたポパーの目指したことだった」
さらに著者の植原氏は以下のように書いています(267頁)。
「反証主義の考え方を日常でも活用したければ、手っ取り早いのは次のやり方だろう。
何か怪しげな主張に遭遇したら『その主張が間違いだと判明することがあるとしたら、それはどんな場合ですか?』と問いかけるのである。
この問いに対して『そんなことはありえない』『絶対に正しいんだ』というような、反証を受けつける余地のない答えが返ってきたら、
まともに取り合う必要はないと判断してよい」
我が競馬サークル内の言説においても、上記に当てはまりそうなものが少なからずありそうです。
そのような考え(主張)を展開する者は、当書256頁の以下のくだりに書かれているような人だということなのでしょう。
「大事なのは、どの仮説がいわば『暫定チャンピオン』と呼べるのかを、そのつどきちんと確かめようとすることである。
この手続きをスキップして、自分の信じたい仮説だけに固執する、といった態度の弊害は明らかだろう。
もっとも、そんな態度をとる人は、自説以外の仮説をたいていは考慮しないだろうし、まして最良の説明への推論を行うことなどまずないだろうけれども……」
私は、この「暫定チャンピオン」という喩えに、『科学と非科学』(中屋敷均 講談社現代新書)にあった以下のくだりを思い出してしまいました。
「学生だった頃、動物行動学者の日高敏隆先生が、『科学的真理とは、その時つける最善の嘘である』というようなことを話しておられるのを聞いたが、
この先生の言は、科学に対する人々の営為とその限界の関係を的確に言い得たもののように思う」
日本テレビのアナウンサーであった桝太一氏は、大学院ではアサリの殻について研究したように生物学専攻の下地があり、『桝太一が聞く 科学の伝え方』(東京化学同人)には、
国立科学博物館館長の篠田謙一氏が日本テレビの『世界一受けたい授業』に出演した際の話が対談形式で載っています。
氏がその番組で、人類はアフリカから出てきた1つのグループだという話をしたら、出演者に、
私は占い師にあなたの祖先は誰々だと言われたがどちらが正しいのかと問われたとのこと。
これに対して氏は、「そこで思ったのは、占いは信じる、科学は納得する、そういった違いがあるということでした。占いを信じることは結構です。
ですが私たち科学者は集めた証拠から論理的に結論を導き出しているんです。この二つは並べることはできません」と述べています。
さらに篠田氏は、「たとえば、一本の木の中には多様な昆虫が生息しています。実際に木を見てもらい、これが多様性ですと紹介する。
そして、どうしてこんなに多くの昆虫がいるのかを考えてみましょう、というとそこにはさまざまなストーリーがあります。
そうしたストーリーを一つひとつ見せるのが展示です。ところが、最初から神様がつくったからだ、と言われてしまうとそこで終わってしまうんですよ」
と述べています。つまりこのような言に対しては、反証のしようがまったくないのです。
『科学的思考入門』で植原氏は、「科学で主張されることは、それが反証可能性を有する限り、どこまでも『仮説』であることを受け入れなければならない。
科学は、間違ってしまうリスクを承知のうえで、できるだけ優れた説明を産み出そうとする活動として、いつまでも続くのである」と述べており(272頁)、
そして、「『信じる心が足りていない』式の反証逃れはそうではない。新しい予測や問題解決をもたらすことはなく、停滞した状態にとどまり続ける ―― たとえば
『もっともっと心から信じなくちゃいけない』と繰り返す ―― だけなのだ」とのことです(282頁)。
(2025年6月22日記)
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