サラブレッドの遺伝学に関する講習会(その1)
昨年の11月25日、新冠で こちら を聴講しました。
後日、この聴講記について或るところから寄稿依頼を受けたので、それが出た後に補足を入れながら我がウェブサイトのコラムとして掲載の予定だったのですが、
当該寄稿が御破算となったため、書き上げた原稿をそのまま以下に転載したいと思います。
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「サラブレッドの遺伝学に関する講習会」の聴講記
昨年11月25日、新冠のレ・コード館で、日本軽種馬協会が主催するナターシャ・ハミルトン博士(レーシング・オーストラリア馬遺伝学研究センター所長)
による以下演題の標記講習会があり、これを聴講してきました。
・遺伝学の基礎
・競走能力・健全性に影響を与える遺伝的要因
・繁殖能力に及ぼす遺伝的要因
・近親交配と遺伝的多様性 ― 血統の未来を考える
私が遠路はるばる新冠まで足を運んだ理由は、その内容を聴きたいというよりは、どの程度の来場者数なのか、どのような方々が来場しているのか、
どのような質問が出るのか、といった現場の空気を把握したかったのです。
結論として、足を運んだ甲斐がありました。そのあたりの話を以下に記します。よって本稿は、この講習の内容報告とは若干違うことをまずは申し添えておきます。
ちなみに講習内容は、別途 YouTube 配信をするとのことでしたので、すでにアップされているかもしれません。
<見えた現実>
「血統」と「遺伝」は表裏一体であるにかかわらず、世の血統論で「遺伝」という生物学的視点がすっぽりと抜けているものは少なくありません。
生産地にしても、過去に「遺伝」に関する講習会はほとんど(まったく?)なかった様子ですが、これ、よく考えれば非常に不可解な話です。
そんな中、ようやく今般の講習会ということは、一歩前進であることに間違いはないでしょう。
レ・コード館のホールは思った以上に席が埋まり、生産者の本件への関心は深いものであることが感じ取れました。
これは、サンデーサイレンスの血の蔓延などから、配合を悩ませていることもあるのではないかと推察します。
そのように多数の来場者であった一方で、第三者的に聴講していた私として、ある種の懸念を抱きました。「学者と現場との距離の遠さ」を実感したからです。
生産者に「やはり遺伝は難しい」と思われ、さらに敬遠されてしまわないかという危惧です。講習会終了後、来場した何人かの生産者に感想を訊いたところ、
異口同音に「難しすぎる。では生産者として何をすればいいのかがわからない」というもので、予想したとおりでした。
例えば、生産者にDNAの塩基配列の話をしても仕方なく、それ以前に、来場者の多くは「遺伝子とDNAの関係」や「メンデルの法則」も理解しきれていないというのが正直なところでしょう。
遺伝をそれなりに勉強してきたつもりの私でさえ、講習内容の少なからぬ部分は高度すぎて理解できませんでした。
講習は、英語で話す演者を通訳者、ファシリテーターがサポートする形態だったのですが、「アレル」「多型」「スニップ」「ROH」のような用語が次々に出てきたので、
私はここに「当たり前という落とし穴」があると思ったのです。
話が少し脱線しますが、三毛猫は基本的にメスのみです。その毛色の遺伝は性染色体が絡むからです(ごく少数のオスは性染色体がXXYとなってしまった個体です)。
そこで以前、親しい人たちに「三毛猫はメスばかりだと知ってる?」と尋ねてみたのです。
私として、「三毛猫はメス」というのは至極当たり前と思っていたので、ほとんどの人は「そんなの知ってるよ」と答えてくるものと思っていたのです。
が、これがなんと、知っていると答えてきたのは半分にも満たなかったのです。
それも、知らないと答えてきた中には博士号保有者や弁護士もおり、一方面の学識は他方面の基礎知識にはつながらないということを痛感しました。
まさしく「当たり前」の落とし穴です。
<それぞれの課題点>
今回の講習会に出席して、あらためて学者側および生産者側のそれぞれに課題点あることがよくわかりました。
学者側の課題は既述のとおりですが、当然に生産者側も慢性的な課題を抱えています。
以前、日高の生産者から「〇〇という血統理論(の信憑性)はどうなのですか?」と訊かれたことがあります。
どう見てもその理論は生物学から逸脱した疑似科学であり、遺伝の基本を知っていればその取捨の判別は瞬時にできるはずなのです。
学者と現場との距離の遠さを実感したと書きましたが、どうしても生産者は血統(配合)における成功の方程式を求めたくなります。
換言すれば、学者に対して白か黒かの答えを期待してしまいがちです。生活がかかっているのですから、それは当然の話ではあります。
しかし、生物学(科学)に絶対的な正解はないのです。生まれくる仔が牡か牝か、蓋を開けねばわからないのも同様です。
生物学者は、遺伝を含む生命現象に対して、断言調の言葉はおいそれと発せられないのですが、そのあたりの認識の差も今般の講習会では感じました。
ファンのみならず生産者においても、ひとつの結果を見て、それが全体に当てはめられると思ってしまっていないか(白か黒かを即断していないか)と思うことがあります。
昨秋の天皇賞を勝ったマスカレードボールはサンデーサイレンスの3×3を持ちますが、よって3×3は総じてOKと思ってしまうフシはないでしょうか。
もしそうだとしたなら、ヘビースモーカーのピンピンしたおじいちゃんが近くにいたら、喫煙は健康に悪影響はないと思ってしまうことと同じです。
つまり、あくまで検討対象として焦点を当てる先は「個」ではなく「群」なのです。木を見て森を見ずになってはいけないのです。
生産者側も「メンデルの法則」や「近交弱勢」といった語句の意味・内容を理解せねばと思うことはしばしばです。
そうでないと、いつまで経っても先に述べた距離は縮まらないのです。
今般の講習会の演題の中には「近親交配と遺伝的多様性」がありましたが、その関連語句の内容を順次理解していくと、
多様性低下はどのようなことを惹起するのかの理解もできてくるはずです。
<橋渡し役の必要性>
今般の講習会が行われた翌週には、競馬界の学術団体たる「日本ウマ科学会」の年次学術集会がありました。
そこでは近親交配の影響に関する発表もあったようですが、ちょっと考えてみていただきたいことがあります。
もしその内容が生産界において有用なものであったならば、誰がそれをわかりやすく噛み砕いて生産界に伝えるのでしょうか。
研究が主業務の学者は当然にそこまでは手が回りません。
しかし、全ての学者がそのような姿勢であったなら、それがどんなに有用な科学的発見であったとしても、それを活用すべき現場までは届かないのです。
今般の講習会は通訳者やファシリテーターがいましたが、それでも先に書いたような専門用語がどうしても出てしまうのが実際であり、
よって、さらにこれらを意訳し伝達する「橋渡し役」が別途必要だということを再認識しました。
<今後について>
確かに今般の新冠での講習会の内容は、かなり難しかったと思います。
しかし確実に評価できるのは、「遺伝」というテーマについて、生産地で生産者に直接発信をしたということです。
そしてこれは一度で完結できるテーマではありません。日本軽種馬協会をはじめとした組織には、継続して本件をテーマとした講習会を開催していただきたいのです。
今般多数の来場者があったことは、まさしく生産界において「遺伝」に関する造詣を深めたいと思っている生産者が非常にたくさんいることの証左であり、
今般の講習会はその一里塚にしてもらえれば嬉しいです。
マスカレードボールはサンデーサイレンスの3×3、カムニャックは2×4です。
前者のサンデーの血量は25.00%、後者は31.25%と差異がありますが、その近親交配の度合を示す「近交係数」は同じです。
このような視点からの血統論、そして講習会は過去にありましたか?
リアルスティールとラヴズオンリーユーは性が違います。ソダシとママコチャは毛色が違います。
持っている遺伝子が違うのです。全きょうだいでもこのように親からもらう遺伝子に違いがあるのは、メンデルの「分離の法則」を理解すればうなずけるようになりますし、
さらには、全きょうだいを同一馬と見なすような血統言説の非科学性にも気づくリテラシーも身についてくるのです。
あらためて、そのようなレベルからの続編を期待します。
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寄稿の依頼元は、専門用語の解説や補足を交えながら研究の最先端を一般ファンにも身近に感じてもらって、
遺伝学への興味が広がるような構成を想定していたとのことです。
しかし上に書いた背景からも、当日の内容をベースにそのような構成に原稿を仕上げるのは困難であり、それ以前に「遺伝」というテーマは、
メンデルの法則を含む基礎の話、インブリーディングの話、母性遺伝の話、疑似科学の氾濫の話など、論ずる項目を列挙すれば次々と出てきます。
よって、3000字の単発原稿でそこまで簡潔に落とし込めるものでもなく、依頼元とも相談のうえで今般の寄稿は見送りとなりました。
いずれにしても、少し遅れてしまいましたが、ようやく我がウェブサイトのコラムで本件報告ができたことにほっとしているところです。
(2026年1月8日記)
「サラブレッドの遺伝学に関する講習会(その2)」に続く
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