真実を見極める確かな眼を

今朝のTBS「サンデーモーニング」の「風をよむ」のコーナーは「デマ情報、どうする?」であり、過日の大阪の地震において、シマウマが逃げ出したとか、 京セラドームの屋根に亀裂が入ったとかいうデマの問題を取り上げていました。 その中で論説者が、現代においては流布されている情報について本当であるかどうかは気にしない風潮にある、というようなことを述べていました。 また、これらデマを発する者、それを読む者は、そこに一種の娯楽性を求めて楽しんでいるというようなことも語られていましたが、思わず頷いてしまいました。

過日書いた「真実の中にこそ醍醐味あり」では、サラブレッドの血統理論についても、 通常の競馬ファンは「真実」より「醍醐味」を優先しているのではないかと私は指摘しましましたが、確かに誰だって、 楽しさや醍醐味を第一優先にするのは或る意味で当たり前のことではあります。しかし、そこに真実との乖離が見えた場合に大きなリスクを抱えることになります。

過日『男の弱まり 消えゆくY染色体の運命』(黒岩麻里 ポプラ新書)を読みました。著者は北海道大学准教授の生物学者ですが、この本の中に以下の一節がありました。

「私たち科学者は断言をさける傾向があります。結論を述べる時に『〜だ』と断言することはせずに、『〜の可能性があります』『〜という考え方も残されています』 といった具合です。一般の方々からみれば、はっきりしないと歯がゆく感じられるかもしれません。ですが、これは仕方のないことなのです。 多くの科学研究がとるアプローチ法とは、立てた仮説をひとつひとつ否定していく作業なのです。現在までの研究成果からは、ここまでの仮説が否定できたけれども、 まだ否定しきれない仮説が残されている以上は、100%断言はできないのです」

バラエティー番組のクイズコーナーでよく「〜は存在する。○か×か?」というのがありますが、これの答えのほとんどは○です。 その存在を一度でも確認すれば、答えは○とすることができるからです。 仮に答えは×のつもりで質問を作ったが、あとから存在が確認されてしまったなら、やっぱり○でした……ということになってしまうからです。

予想屋が「この馬、絶対に来るよ!」と言ったとして、その馬が負けた場合に、その予想を信じたファンはがっかりはするものの、怒り心頭、心底憤慨、訴えてやる! ……なんてことはないでしょう。なぜなら、予想屋が使う「絶対」という言葉に科学的裏づけなど皆無であることは当たり前であり、暗黙の了解であるからです。 物事に「絶対」が稀有であることは、結婚式で「永遠の愛を誓います!」と言うのもしかり……。

サラブレッドは「生物」、生物は「遺伝」という科学現象に司られ誕生します。ごくごく当たり前の話です。しかし依然、 科学的根拠のない断言調の疑似科学的血統理論が存在することは、あくまでギャンブルがベースの「競馬界」は、上述の予想屋のような思考、 ひいては全てが娯楽優先の思考が支配しているからではないでしょうか? 「楽しければいいじゃないか!」と皆が思っている中で、 私のような者が「科学」の話を持ち出すことは無粋で味気ないと思われてもそれはそれで仕方ないのかもしれませんが……。

先日、或る競馬サイトの動画を見ていたら、非常に著名な日高の生産者が、或る種牡馬の産駒の特長について毛色に絡めて論述していたことがちょっと気になりました。 テスコボーイの栗毛産駒は走らない(こちらを参照)というデマに近い説に翻弄されてからかなりの年月を経ても、 依然そのような考えが残っているのだろうかと思ってしまったのです。

(2018年6月24日記)

戻る