あらためて山野浩一さんのこと
昨年7月にお亡くなりになった山野浩一さん、7月30日に飯田橋のホテルで偲ぶ会が開催されたと聞きました。
私が血統に興味を持ったのは、山野さんの存在に拠るところが大きかったのは確かです。競馬に興味を持ち始めた1976年頃、
山野さんは寺山修司氏らと同様にフジテレビの競馬中継のコメンテイターとして出演していました。中学生の私として競馬新聞などには触れる機会もなく情報源に乏しかった当時、
番組中の「山野浩一の血統コーナー」は食い入るように観ておりました。
78年に発刊された『サラブレッド血統事典』(二見書房)は当時の私の真のバイブルであり情報源でした。常にこれを肌身離さず高校にも持参して、
うっかり机の上に置いておいたら、担任の教師に「こんなもん他の連中が見てギャンブルに興味を持ったらどうするんだ!」と怒鳴られ取り上げられました。
このようなこともあって、私は「競馬」と「ギャンブル」の棲み分けがライフワークのひとつになったような気もします。
一方で、山野さんの論述にはオーバーランがあったことも事実です。
拙著『サラブレッドの血筋』や当コラム欄の「競馬サークルにおける科学者の怠慢」でも触れたとおり、
『週刊競馬ブック』(2016年5月15日号)の「一筆啓上」で既存の科学から全く逸脱した持論を展開されたことは非常に残念でした。
今回の偲ぶ会に多数の著名な関係者が集まったことからも分かるとおり、まさしく山野さんは競馬サークルにおける重鎮でした。世の中のどの分野においても「重鎮」は神格化され、
その発する言葉は精査されることなく信用されてしまいます。歯に衣着せぬ言い方をすれば、
あのような持論を展開したのは重鎮たる自らの言葉の影響力に気づいていなかったということであり、山野さんを尊敬する一方で「科学」を追及する身の私としては、
まさしく板挟みの思いでした……。
科学界を例にすれば、海外ではノーベル賞を受賞した高名な学者の学会発表においても、若手の研究者が「その内容のこの部分については私はこう思う」
というような異論を臆することなく発し、ニックネームで呼び合いながら議論してお互いを(更には科学界を)高め合うオープンな空気があると聞きます。一方で日本では、
高名な学者の学会発表においては、常にその学者の顔色を窺い無難な質問しか出ないと聞きます。このような例を出すのはおかしいかもしれませんが、
重鎮の発する言葉には誰も何も言わない(言えない)競馬サークルの一側面をあらためて察したのです。
ついついまた辛口なことを書いてしまいましたが、晩年の山野さんのフェイスブックでは奥様の介護に尽力されている様子が報告され、それはそれは頭の下がる思いがしました。
余命宣告を受けたことも書かれて、自らの死後の遺産や著作権の扱いも冷静に考えられていることには本当に頭が下がりました。私には到底できないでしょう。
そういう意味では私から見たら本当に雲の上の存在の人でした。
上述の『サラブレッド血統事典』(←競馬関係者のサイトでも「辞典」という誤字が散見!)ですが、後半の版では師弟関係にあった吉沢譲治さんとの共著でした。
ご存知のとおり、吉沢さんは現在は闘病中であり、以前も書きましたが(こちら)、昨年4月に私は吉沢さんに会ってきました。
その時点では山野さんは最後の闘病中でしたが、吉沢さんには殆ど情報が入っておらず(懇意にされていた石川ワタルさんの死もご存知ではなかった)、そのことを伝えると、
後半は距離ができていた山野さんとの苦い思い出を話して下さいました。山野さんは逝ってしまいましたが、私自身、吉沢さんとはまだまだ話したいことが残っており、
近いうちまた訪問しようと考えております。
以上、罰当たりなこともまたまた書いてしまいましたが、競馬サークルに対して決して迎合せずに盛り上げてきた山野さんですから、
決して「よいしょ」はしない偏屈な私のそんな偲ぶ気持ちも受け入れて頂けるものと勝手ながら思っております。あらためてご冥福をお祈り申し上げます。
(2018年8月4日記)
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