遺伝的多様性の低下に対する米国の方策(その3)
生産界における遺伝的多様性の低下の問題については何度か本コラム欄に書いてきました。
そして、米国の種付頭数制限案についても繰り返し触れてきましたが、まさしくこの件について、
『週刊競馬ブック』 の今週号の 「一筆啓上」 に、米国ウインチェスターファーム代表であり獣医師でもある吉田直哉氏が 「北米の交配頭数制限案」 と題した記事を寄稿しています。
早速読ませて頂きましたので、私なりに思ったことを以下に記してみたいと思います。
氏は 「私のこの新案に関する第一印象は『自由競争への干渉』だ」 とおっしゃっていますが、それは論点が違うのではないかと私は思います。
確かに自由競争は大原則です。しかし種牡馬選択という観点では、現在の世界各国の生産界の状況は 「自由」 という名の 「無節操」 です。
その無節操の結果が、いびつな遺伝子プールであり、こちらの論文 こそその証左です。
今般の案を打ち出したジョッキークラブは 「生産者達と近い存在ではなく代弁者とも言い難い」 とのことですが、
だからこそ、生産者との利害関係に縛られない第三者的な冷静な案を打ち出せたのではないでしょうか?
ジョッキークラブとしても、当然のことながらこのような案に対する根強い反発は十分に予想したと思われ、
それでも敢えてこの案を打ち出すことは不本意ではあったものの、
科学的観点に立てば、背に腹は替えられぬ逼迫した状況があったものと想像します。
「生産者は近親交配を避けるための配合を考え、他州・他国から別系統の馬を導入する」 とのことですが、果たしてどうでしょうか?
3×4の近交リスクは3×3の半分に過ぎないのですが、こちら でも書いたとおり、
私の調査では、3×4のインクロス馬は3×3のインクロス馬よりも数では5倍超も跳ね上がるのです。
つまり、生産界は、近交リスクの度合いを正確には把握しておらず、「単に3×3をボーダーと考えている程度」 というのが残念ながら現状でしょう。
確かにこれは日本のデータですが、私は新たにGIを勝った馬を自作の母系樹形図に加筆する際に、各馬の5代血統表を全てチェックしており、
以前から北米産馬はきつい近親交配の例が多いなという印象を受けています。これについては別途統計解析をし、拙著 『サラブレッドの血筋』 第3版に結果を掲載予定です。
他州・他国から別系統の馬を導入すると言っても、全体から見れば一部に過ぎないでしょうし、既にそのようなことは実践してきたことでもあり、
生産界全体の遺伝子プールに即座に影響を与えるものでは到底ありません。
そもそも、多様性低下をきたすいびつな遺伝子プールになりつつあるところで、個々の生産者レベルで近親交配を避ければ済むという話ではありません。
生体個々の近交度合いを示す 「近交係数」 は F=Σ[(1/2)n(1+FA)] という式で示されますが、
多様性低下をきたした 「群」 の個体は5代血統表でカバーしきれないインクロスする祖先が多数存在し、また 「FA」 の値も上昇することから、
結果として近交係数の上昇をきたします。そうすると、単に3×4と言っても、昔と今とでは近交リスクが違ってきてしまっているのです。
「遺伝」 の科学的メカニズムは確かにややこしい。しかし、どこかで競馬サークルはそんなややこしい話から目を背け続けるのをやめないとまずいことになります。
競馬サークルで影響力を持つオピニオンリーダーの方々が、今般の種付頭数制限案に対する是非を公の場で論ずるのであれば、最低限、以下の@〜Bは理解すべきだと私は考えます。
@「近交弱勢」 とは何か?
A「近交係数」 とは何か?
B「常染色体劣性(潜性)遺伝病」 とは何か?
「遺伝」 に関する造詣が深い中小の生産者がいたとしましょう。その生産者は現在の各国生産界の遺伝的多様性の低下には非常な危惧を抱き、
自らの生産馬の近親交配はできる限り避けつつも、どうにかせねばと思い続けます。
しかし、生産界という巨大な客船が、その多様性低下という方向に舵を切り続けた場合、乗客たるその生産者は、悲しいかな一蓮托生なのです。
先日の凱旋門賞ですが、日本馬以外の出走馬の血統表を見て唖然としました。
その9頭中7頭は Galileo の血が入り、Galileo の父である Sadler's Wells の血も入っていないのは1頭のみ……。
こちら では、子供に与える食べ物がもはやハンバーガーやピザくらいになりつつあるのが現在の生産界だと書きました。
欧州においてはまさしくハンバーガーが Sadler's Wells で、ピザが Galileo です。日本ならハンバーガーがサンデーサイレンスで、ピザがディープインパクトでしょうか。
正直なところ、私は今回の米国ジョッキークラブの案は反故にされると思います。
残念ながら、上記@〜Bを理解している者と理解していない者の数の差は自明であり、「多勢に無勢」 であるからです。
その一方で思うのは、今回のジョッキークラブの動きは巨大な山を動かし始めるきっかけであることは確かであり、
今後、これら組織が生産界に対して地道な科学的啓発を継続的に行うことにより、何らかの前向きな方策が施行されるものと私は信じています。
吉田氏はこの記事の最後に 「賛否両論渦巻く米国ではこの制限案に対する議論はこれからも続いていく。
それが業界そのものを見直すために、現在交わされている論争が新しい秩序を産む陣痛であることを願って止まない」 と書かれていますが、
これについては全くの同感です。
他方、日本においてはどうでしょうか? 米国の積極的な動きにも触発されることなく、新たな方策案や議論が今後もしばらくないようであれば、
間違いなく日本の競馬界に明日はないでしょう。
(2019年10月18日記)
「遺伝的多様性の低下に対する米国の方策(その4)」 に続く
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