見失ってはならない科学的醍醐味
私は、サラブレッドの血統(配合)を科学的に論じる上で、「母系の重要性」 と 「近親交配の意味」 を大きなテーマとしています。
あらためてまた吉沢譲治さんの著書をパラパラと見ているのですが、これら2つのテーマのうち、
前者は 『新説 母馬血統学 ― 進化の遺伝子の神秘』(講談社α文庫)、後者は 『血のジレンマ サンデーサイレンスの憂鬱』(NHK出版) が関連し、
ここでこれら書物に対して新たに思ったことを書いてみたいと思います。
「母系の重要性」 については、別稿では何度となく書いているとおり、ミトコンドリアの遺伝子は母親からしか授からないので(=母性遺伝)、
ミトコンドリアという細胞内小器官がその重要性に大きく関与していると私は思っています。
他方、「近親交配の意味」 は、その機序や功罪については何度も論じてきました。
そこで思ってしまったことは、上記の吉沢さんの著書において、ほんのちょっとでもいいから、そのような科学的な論述を組み込めなかったのか?……ということなのです。
ミトコンドリアの遺伝子が母性遺伝することが解明されたのはつい最近の1980年代ですが、
吉沢さんとゲノム遺伝子情報研究所長の田中匡氏との対談本である 『最強の血統学 遺伝子から読み解く人と馬〜血の謎〜』(ベスト新書)
には既にそのことが触れられています。この本は2003年の発行ですが、『新説 母馬血統学』 が文庫化されたのはその後の2008年であり、
その 「文庫版あとがき」 にでもミトコンドリアの母性遺伝の話がほんのちょっとでも書いてあったなら……なんて思ってしまうわけです。
また、近親交配に関しては、時系列的に見ればミトコンドリアの遺伝子が母性遺伝することの解明以前の大昔から、その 「効果」 が発生するメカニズム、
そしてそこにはメリットとデメリットがあること(=諸刃の剣)、過度の近親交配はリスクが高いことなど、科学的にも解明されていた話です。
しかし 『血のジレンマ』 には、そのようなごく基本的な遺伝の科学的なしくみについて一切書かれていないことに不完全性を感じてしまうのです。
この本の随所にキャッチフレーズのごとく、この本のタイトルと同じ 「血のジレンマ」 という語句が出てくるのですが、
そこに 「なぜジレンマを起こすのか?」 「そのジレンマを誘発する科学的機序は?」 について、ほんの数ページ加筆するだけでも、
この著作の 「厚み」 や 「重み」、そして何よりも 「醍醐味」 がかなり増したのではないかと私は思うのです。
この種の市販書籍は、まずは著者と編集者が 「これから創り上げるもの」 の概要について深く議論し、骨格を定め、細かい修正(校閲)を施しながら完成させていきますが、
少なくとも上述の吉沢さんの2冊の編集者は、そのような科学的論述の有用性、というよりも必要性に残念ながら気づけなかったということでしょう。
さらに深読みすれば、こちら に書いたとおり、吉沢さんによれば 「出版社側から一般読者に対して 『わかりやすさ』 を求められる」 とのことなので、
編集者による意図的な科学的論述の排除もあったのかもしれません。
一方で、読み手の立場としてはどうでしょうか?
『新説 母馬血統学』 の 27 頁には 「優秀なファミリーであればあるほど、母親が未勝利馬であろうと不出走馬であろうと、
一流馬を出してくる可能性を秘める」 とあります。また、294 頁には 「名馬を生み出すのは、母の力である。すべては母の血から、はじまっている」 とあります。
しかし、どれだけの読者が 「その科学的メカニズムは?」 と思ったかは疑問です。
かなり前ではありますが、葉月里緒菜さんが主演で映画化もされた 『パラサイト・イヴ』 というSF小説があります。
こちら にも書いたように、ミトコンドリアは元来は別の生物と考えられており、このSF小説ではそんなミトコンドリアが息吹を得て、
自らの解放を訴えながら核の奴隷化をもくろむというストーリーなのですが、
この著者の瀬名秀明氏はミトコンドリアの研究者であり、「新潮文庫版あとがき」 で氏は以下を述べられています:
「『もっと一般読者にわかるように書け』 というときの 『一般読者』 とは誰だろうか。
『一般読者』 とよばれる括(くく)りの中に、科学者や技術者も含まれているという事実は忘れられている。(中略)
『私は文系なのでわかりません』 も何百回と聞いてきた言葉だ。
これほど文系を貶(おとし)める言葉はないのに、なぜ多くの人が免罪符のように、はにかんだ笑みさえ浮かべて、この言葉を口にするのだろう。
この言葉が裏に隠している意味は、つまり 『私は自分に関係のないことは切り捨てることにしています』 ということではないか。
そのような態度は理系・文系といった区分と何の関係もないことである」
同感です。われわれの周りでこのような思考が益々はびこると、
上述した 『血のジレンマ サンデーサイレンスの憂鬱』 という著作物における 「厚み」 や 「重み」 の話のように、そこに在る 「醍醐味」 をみんなで追求し共有することはさらに難しくなってしまうのでしょう。
もしそうだとすると、かなりの寂しさを感じてしまうのですが、これはやはり仕方のないことと諦めるしかないのでしょうか。
(2020年5月9日記)
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