ミトコンドリアの遺伝子

私が母系の重要性のキーワードのひとつに「ミトコンドリア」を挙げていることは繰り返し書いてきましたが、あらためて想ったことを今回は書き留めておきたいと思います。

おさらいですが、ミトコンドリアとは細胞内の小器官であり、誰でも一度は学校の授業で聞いたはずです(居眠りや悪友とおしゃべりさえしていなければ)。 人や馬といった動物は「呼吸」をしていますが、酸素を取り込むことにより体内の炭水化物や脂肪、タンパク質などからエネルギーを取り出して、 体内でエネルギーの分配を行う物質(「エネルギーの通貨」という喩えがよく使われます)であるアデノシン三リン酸(通称「ATP」)を合成しています。 この合成を行っている場所がミトコンドリアなのです。

細胞において通常の遺伝子は核の中のDNAに存在しますが、ミトコンドリアも独自のDNAを持ち、そこには少数ながらも遺伝子が確かに存在するのです。 このことから、ミトコンドリアはもともとは別の生物であり、 20億年前、より大きな生物である「細胞」がミトコンドリアの祖先の生物を取り込んでしまったものと考えられているのです。

このミトコンドリアの遺伝子は母親からのみ授かります。これを母性遺伝(母系遺伝)と呼び、そのメカニズムは書き始めるときりがないので割愛しますが、 この事実が、私が母系の重要性を説く根拠のひとつとなっています。これに絡めて本コラム欄では「なぜ特定の牝系から多くの活躍馬が出るのか?」と題したシリーズ (その1その2その3その4その5その6その7 )を書いてきました。

ところで、もうひとつ忘れてはならない事実があります。 遺伝子の質というより量の観点に立つと、ミトコンドリア自体の形成や機能維持に関与しているのは、 ミトコンドリア自身の遺伝子よりも部外者たる核の遺伝子の方がはるかに多いのです。 これは、上述のとおりミトコンドリアの祖先が寄生虫のごとく「細胞」に侵入した後、自らの設計図(=遺伝子)の殆どを細胞の核の中に押し込んで、 生命活動のややこしい作業は核に押しつけたのです!

上記は1970年代に生物学者のリン・マーギュリスが唱えた「細胞内共生説」であり、現在はこの考えが生物学の主流です。 つまり、ミトコンドリア自体の実際の機能発現は、核の中の遺伝子とミトコンドリア自身が持つ遺伝子の「協働」によるのです。

以前も書きましたが、『ニュートン別冊 遺伝とゲノム(増補第2版)』には「オリンピック選手のミトコンドリアDNA型は、特徴的な型にかたよっていた」とあります。 また、シーザリオのような牝馬を最たる例として、別々の種牡馬を相手に複数のGI馬を産む牝馬があまりに多い事実が示す意味ついても別稿で何度も書かせて頂きました。 これらを鑑みても、サラブレッド生産における母系の重要性を主張する根拠として、母性遺伝に基づく「ミトコンドリア遺伝子説」が有力であることは間違いないでしょう。

しかし、もう少し多角的に考える必要があることも確かです。ここで忘れてはならないのが、母系が優秀な名種牡馬です。例えば偉大なる Urban Sea を母に持つ Galileo。 当然のことながら、牡である Galileo は、母 Urban Sea から授かったそのミトコンドリア遺伝子を自身の産駒に授けることはできません。 一方で、半弟の Sea the Stars も沢山の優秀産駒を出しているように、「Urban Sea から授かったもの」を彼らはその産駒にも確実に伝えているような気がするのです。

これについて、私は長い間、科学的にどのように説明できるのかを考え続けたのですが、今般、以下のような仮説を掲げてみました:

「Urban Sea は、優秀なミトコンドリア遺伝子(以下@)を持っていたと同時に、これを的確に活性化させる核の遺伝子(以下A)も持っていた。 Galileo や Sea the Stars は、Urban Seaから@もAも授かったが、@は産駒に授けることは不可能である一方、Aは産駒に授けることができる。 つまり、母系が優秀で産駒成績が優れている種牡馬は、自身の交配相手が持つミトコンドリア遺伝子と有意義に「協働」するような、 自身の母から授かった遺伝子を産駒に授けているのではないか?」

まだまだ蟻地獄のような母系の科学的探究は続きます……。

(2019年8月17日記)

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