なぜ特定の牝系から多くの活躍馬が出るのか?(その5)

生物の形質発現を司るのは遺伝子自体の情報が全てではないとう分子生物学(遺伝学)の斬新な概念である「エピジェネティクス」。 私は、ミトコンドリアとともに、エピジェネティクスは母系の重要性のキーファクターのひとつと考えているのですが、これに関して、 生物学者である福岡伸一先生の『動的平衡2 生命は自由になれるのか』(小学館新書)には以下が書かれています:

「メスの卵細胞には、そのワンペアのDNAを動かすための装置が予めいろいろと用意されている。 その装置、つまり卵細胞の環境が、誕生する生命体に大きな影響を及ぼすことになる。 卵細胞の環境とは、すなわち母なる生命体が生きて獲得した情報である。卵細胞の中に何が含まれているのかはまだわからないのだけれど、 基本的な卵環境はメスを通じて代々受け継がれていく。そう考えると説明できる事柄は多い」

「この卵細胞の中には『マターナルRNA』というものが準備されている。これは受精卵のゲノムからできたものではなく、 あらかじめ卵細胞が形成されるときすでに準備されている、母由来の遺伝子である。マターナルとは文字通り『母の』ということである。母が用意する環境である。 マターナルRNAがまず最初のスイッチとなって、それが新しいゲノムの働き方を決める。 だから、どのようなマターナルRNAがどれくらい卵細胞に用意されているかが、ゲノムDNA上の遺伝子のスイッチオンのタイミングを決めることになる。 マターナルRNAにどのようなものがあり、どんな働きをしているのか、それはまだほとんど明らかになっていない」

その「スイッチオン」がまさしくキーワードであり、既刊の『サラブレッドの血筋』(第2版)で、私は以下の仮説を掲げました:

@活躍馬を多数出す母系のミトコンドリア遺伝子が「外的因子」に反応してスイッチオンとなった。
Aその系統では何らかの理由で代々母系由来の染色体上の遺伝子だけが「外的因子」に反応してスイッチオンとなる。

ただし@は、こちらに書いたとおり、ミトコンドリアのDNAはきちんとしたクロマチン構造ではないこと、 そこに存在する遺伝子は常に発現していなければならないものばかりであること等の理由から、 エピジェネティックな作用を受ける可能性はほぼないということが分かりました。これについては拙著の第3版で改めて触れたいと思います。

一方で、こちらでも書いたとおり、同じファミリーでも特定の枝葉系統に活躍馬が集中するのは、 ミトコンドリアDNAの進化(つまり変異)の速度は核DNAより格段に速いとのことから、他の枝葉とは違う変異の状況がもたらす結果ではないかと考えています。 これについても第3版で論じてみたいと思います。

Aについては、まさしく「マターナルRNA」が関係する話ですよね。この物質(核酸)はまだまだ分からないことばかりであり、引き続き探究して参ります。

先週のヴィクトリアマイルを勝ったノームコアは父がハービンジャーだからこんな特徴、明日のオークスで人気になる妹のクロノジェネシスは父がバゴに変わったからこんな特徴 ……といったような論説は、私の頭の中をほぼ素通りします。

来週のダービーで大本命となるサートゥルナーリア。 兄のエピファネイアは父がシンボリクリスエスだからこうだ、兄のリオンディーズは父がキングカメハメハだからこうだ、 そしてサートゥルナーリア自身は父がロードカナロアだからこうなんだ! ……というコメントがあったとしても、私の耳には空疎に響くでしょう(こちらも参照)。

世界のGI馬を網羅した母系樹形図を書いていると、複数のGI馬を産んだ牝馬の例が本当にたくさん見つかり驚きの連続なのですが、 拙著『サラブレッドの血筋』(第3版)では、そのような偉大な母馬をリストアップする予定です。

(2019年5月18日記)

特定の枝葉系統に活躍馬が集中……と書きましたが、今日のオークスを勝ったラヴズオンリーユーの3代母 Miesque の系統こそまさしくそれで、 以前、こちらにも書きました。そして、繁殖牝馬が生涯に産める数はせいぜい10数頭なのに、複数のGI馬を産むことは普通の話ではない。 リアルスティールに続いてラヴズオンリーユーを産んだラヴズオンリーミーの偉大さも改めて感じます。

(2019年5月19日追記)


上記のとおり、5ヶ月前に異父きょうだいのノームコアとクロノジェネシスのことにも触れましたが、とうとう妹も秋華賞を勝ちGI馬となりました。 この姉妹の母であるクロノロジストの偉大さを改めて感じるとともに、なにか、父にはとうてい太刀打ちできないような、とてつもない力を「母」に感じてしまったのです。 人馬を問わずにです……。

(2019年10月13日追記)


なぜ特定の牝系から多くの活躍馬が出るのか?(その6)」に続く

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