疑似科学はなぜはびこるか?
今回のコラムのタイトルですが、これは丁度読み終えた『疑似科学入門』(池内了 岩波新書)の第3章のタイトルをそのまま拝借したものです。
この本の著者の池内先生は宇宙物理学者なのですが、冒頭からいきなり唸ってしまう記述がいくつもあり、例えば以下です:
「送り手は自分たちに好都合な情報を一方的に流し、受け手は自分の頭で考えて判断することを放棄して鵜呑みにするのが習い性になっている。
その結果、偏った情報を何回も聞かされているうちに非合理であろうと信じ込む傾向が強くなった。
情報が溢れているかに見える現代、実は真の情報は少なく、パフォーマンスを駆使して世論を操作しているのである」
春のクラシックの回顧やPOGの話題がたけなわです。関連書物では当然のことながら血統の論説が多々ありますが、
名も売れている血統評論家の論説ながら、理解に苦しむ内容のものが依然散見され、例えば、いま私の手許にある雑誌の記事には、以下のようなものがありました:
A氏の記事より
「エピファネイアは Kris S.≒ Habitat のニアリークロス2×4を持つので、Habitat の特徴である非力な後駆を受け継ぎ、前駆の良さに頼ったフォームで走る馬だった」
B氏の記事より
「種牡馬としてのロードカナロアは母レディブラッサムが持つ Secretariat ≒ Syrian Sea の3×4全きょうだいクロスに由来する身体の柔らかさを産駒に伝えやすく、……」
上記を何度読み返してみても、どうしてそのような発想になるのか、どうしてそのような因果関係を導き出せるのか、私には全く分かりません。
疑似科学の特徴について、『疑似科学入門』には「一部の当たっていることを針小棒大に解釈して、当たっていないことを無視してしまう点である」とあります。
ただ、救われるのはA氏もB氏も科学者ではない(と見受ける)ことです。
例えば獣医師である私が上記のような記事を書いたら、科学的(生物学的)な裏づけがあると自動的に思われてしまい、
場合によっては学界からお叱りを受けて問題化してしまうかもしれません。
上記のような記事は、単に娯楽主眼の競馬ファン向けのものであり、目くじらを立てること自体がおとなげないのかもしれません。
しかし、日高を訪問し生産者と話をすると気づくのですが、このような記事の内容を信じている生産者も実際にいるのです。
つまりこれは、疑似科学が生産者の実生活を侵蝕していることを意味し、『疑似科学入門』で池内先生は以下のように書いています:
「科学を仕事とする人間として、科学を装った非合理に対して黙って見ておられない場面もある。
それによって人生を棒に振ったり、財産を失ったり、果ては命を失ったりする人が多いためだ」
これは決して大袈裟な話ではありません。サラブレッドの生産者(特に小牧場)には十分に当てはまる話です。
先日、ラジオでジャーナリストの田原総一朗氏が、昨今の政治の荒廃状況について論じていました。その中で、マスメディアにも問題ありと指摘し、
政治記者は政治家に対してのヨイショばかりしており、「政治」に対して全く興味を持っていないとのことでした。
「血統」と「遺伝」は表裏一体です。切り離すことなど不可能です。しかし、血統関連の書物や記事を読んでいると、この著者は「遺伝」には全く興味がないのだな
……と思うことが大半です。そのような著者の論述では「ニアリークロス」「同血クロス」「全きょうだいクロス」といったような語句をしばしば見受けます。
しかし、一卵性双生児と二卵性双生児の違い(遺伝子共有率の差)のような遺伝の基本を理解していれば、また近親交配における遺伝子継承のメカニズムを理解していれば、
安直にこのような語句を用いた論述などできないはずですし、そもそもこれら語句自体に科学的意義が殆ど見出せないことも自ずと分かるはずです。
確かに「競馬」は馬券を買うファンにより成り立っています。ファンは娯楽という非日常を求めているので、血統にしても、その真偽は別としたゲーム感覚で楽しみます。
上述の記事にしても、その書き手はゲーム感覚であり、同様の感覚の読み手をターゲットにしていることがよく分かります。
血統関連の論述について無法状態であることは残念ながらいまに始まったことではなく、これについてはこちらで詳述しました。
一方で、生産者自身が上述のような記事に翻弄されたとしても、厳しい言い方をすれば自己責任です。
よって、生産者を含めた関係者各位においては、こちらにも書かせて頂いたとおり、真実を見極める確かな眼を持つことが大切であり、
結局はそこに行き着いてしまうのです。
『疑似科学入門』では「正しく疑う心」の大切さ、つまり「疑った上で納得すれば信じる」を励行することが肝要であるとのことであり、大きく頷いてしまいました。
「なぜ?」と思うことの大切さはこちらでも書いたとおりです。
当然のことながら、私の各種論述もそのような「疑い」の対象です。常に「まな板の鯉」の心境であり、過去の論述は果たして間違いはなかったかと不安になることもあります。
日進月歩の科学界でもあり、もしも新たな発見があり、過去の論述に要補足事項が発生したら、随時お伝えしていきたいと思いますし、それが私の責務でもあります。
ふと思うのです。
現在、独り勝ちにも近い発展を遂げているあの牧場は、何が「科学」で何が「疑似科学」かをきちんと選別して、絶え間ない探究を遂行した結果なのではないかと……。
(2019年6月1日記)
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