医師で作家の渡辺淳一さんを偲ぶ
1951年から74年まで、朝日新聞朝刊の4コマ漫画は「サザエさん」だったようであり、先月14日の朝日新聞の土曜版 『be』 の 「サザエさんをさがして」 は、
1968年8月8日に札幌医科大学で行われた日本初の心臓移植を題材に心臓病患者をコミカルに描いた当時の4コマが掲載されていました
(こちら)。
これは俗に言う 「和田心臓移植事件」 です。なぜ 「事件」 なのかの詳細は割愛しますが、端的に言えば、
胸部外科の和田寿郎教授がドナー(臓器提供者)の生死判定を適確にやらずに、医学界の名誉欲のためにフライングしたのではないか? ということです。
この事件の舞台になった札幌医大ですが、作家の渡辺淳一氏は当時、同大の整形外科の講師でした。
渡辺淳一というと 『失楽園』 等のヒット作により男と女の愛憎ストーリーの大御所のような感がありますが、
もともとはエリート医師の道を歩んでおり、ゆえに初期の医学を題材にした作品には奥深いものが多々あり、私自身、氏の作品は50以上は読んだと思います
(『失楽園』 『愛の流刑地』 等は未読)。
『四月の風見鶏』 で氏は、この「事件」がなかったら自分は作家にならずに医師を続けていたであろうことを記しています。
氏はこの心臓移植が疑問に満ちていることを看過できず、現役の医学部講師の傍ら徹底的に取材して、『小説心臓移植』(のちに 『白い宴』 に改題)を発表しました。
しかしこれは、一講師が一教授に盾を突くかたちとなり、封建社会の大学の医学部には残ることができなくなったわけです。
日本における臓器移植が遅々としているのはご存知のとおりです。「和田心臓移植事件」 がかえって日本の臓器移植制度構築のスピードを鈍らせたとも言われます。
ドナーの 「脳死」 の議論においても、氏は識者の一人としてコメントを発していましたが、その中で、
議論の場に来ている 「識者」 と呼ばれる人々のほとんどが 「脳死とは生体においてどのようになっている状態なのかを全く理解していない」 とおっしゃっていたことを、
冒頭の「サザエさんをさがして」を見て私は思い出したのです。
ちょっと競馬とは無関係の重苦しい話を延々としてしまいました。今回何を言いたかったのかですが、
例えば、前々回、前回で触れた種付頭数制限の件にしても、
浅薄な意見や感情論に左右されることなく 「真の識者」 が腰を据えて方針を打ち出すことが肝要であることを言いたかったのです。
このような方策を打ち出す際は、当然のことながら巨大な組織の圧力もあるはずです。冒頭にも書いた先月14日の 「サザエさんをさがして」 には、
当時は札幌医大の麻酔科助手であった内藤裕史筑波大学名誉教授のコメントに 「いち麻酔科助手が絶大な権力を振るう教授に意見することなど、とてもできなかった」 とありますが、
これはどの分野の組織にも相通ずるものがあります。
我が競馬界を見渡してみれば、あの巨大な主催組織、あの巨大な生産法人……。
「利害関係のない立場の強み」 でも書かせて頂きましたが、どうも一部の話題はタブー化され、健全な議論ができない土壌になってはいないだろうか?
と思うことがしばしばあります。一朝一夕にはどうにもならないことばかりかもしれません。
しかし、疑問に思ったことは看過せずにやらねばと、いま一度、自分の尻にステッキを入れてみるのです。
<最後に、余談をいくつか……>
私が以前勤めていた製薬会社に、営業部時代に札幌医大が担当だった人がいました。
和田教授の胸部外科にも、渡辺講師の整形外科にも頻繁に出入りしていたとのことで、渡辺講師が顔に傷を負っていた時に 「どうしたのですか?」 と訊くと、
「喧嘩した」 との返答だったとのこと。そんなことが何度となくあったようです。氏の個々の作品からも垣間見られるようなエネルギーが、そんな話からも窺えます。
私自身、獣医学科の学生時代に北海道を旅行した際、札幌の友人宅に泊まったのですが、そのすぐ隣りがなんと渡辺氏の実家だったのです。
勢い余って訪ねたところ、その頃はまだお元気だったお母様と、ちょうど東京から来ていた奥様とお会いして、お話をすることができました。本当に懐かしいです。
さらに、その直後に、東京薬科大学の学園祭で氏の講演会があったので、そこに出かけて、お母様と奥様とお話をさせて頂いたことを氏に伝えたら、
「参ったな……」 とおっしゃっていました。重ねて懐かしい思い出です。
(2019年10月14日記)
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