異論と議論のススメ
私は、例えば疑似科学的血統理論について、こちら でも論述したように、その内容やその論者の考え方の問題点をたびたび指摘してきましたが、
これについては反発の意見を頂戴してしまうことも当然のことながらあり、或る意味で、真摯に受け留める必要があると思っています……。
ただ、指摘した論点のみならず、包括的にその他の無関係の論点も一緒くたに 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い(※)」 のごとく言われてしまったこともありました。
(※)「その人を憎むあまり、その人に関係のあるものすべてが憎くなるというたとえ」 ← "デジタル大辞泉" より
つまり、そのような意見をくださる方は、その私の指摘した内容の如何というよりも、「オレが敬愛する理論や論者にネガティブなことを言うな!」 というのが心情だと思うのです。
ただ、哀しいかな、その心情は私にも非常によく分かるのです(苦笑)。
しかしです、明らかに科学的根拠が見出せない理論や言説を、サークル全体が看過し続けて本当にいいのだろうか?……とやはり思ってしまうわけです。
懇意にさせて頂いた吉沢譲治さんとのお付き合いも、こちら にも書いたとおり、
最初に吉沢さんに 「突然変異」 という言葉の多用の問題点を指摘させて頂いたのが始まりです。
競馬界は「ムラ社会」であると何度も耳にしたことがあります。ムラ社会では、因襲にとらわれることにより一律な思考が席巻し、異質な前例のない発想や行動は徹底的に排除されます。
改善に向けて論じるべき課題があったとしても、その中身にまで踏み込まずに、というか踏み込もうともせずに、
その 「輪」 の中の人たちの単一思考でその取り扱いを判断してしまいます。
ひとつの政党を支持し続けるのも良いかもしれません。けれども、どんなに素晴らしい政党だって、首をひねりたくなる政策を打ち出すことはあるでしょう。
右派にも左派にもそれぞれ正しい部分と間違った部分があるはずで 政党や政治家にしても、一元的にその支持を維持するのは危険だと私は考えます。
日本人は、自らが発した或るひとつの考えを否定されただけで、人格さえも否定されたと感じてしまう傾向があるということを聞いたことがあります。
また日本では、高名な学者の学会発表においては、常にその学者の顔色を窺い無難な質問しか出ないと聞きますが、
海外ではノーベル賞を受賞したような学者の発表においても、若手の研究者が 「自分はこう思う」 というような異論を臆することなく発し、
お互いのステータスに関係なく議論しながらお互いを高め合う空気があると聞きます。
「アメリカ人は、白熱した議論を戦わせても、それが終われば肩を組んで帰っていく……」 というようなことも聞いたことがありますが、
こちらの 「厚切りジェイソンが語る「異論と議論のススメ」」 の記事は非常に含蓄がありますね。
「違いは不快、でも安定には成長はない」 とのことですが、そのとおりです。
疑似科学的な血統理論に対しても、今後も繰り返しその問題点を指摘させて頂きますが、その一方で、
これらの論者たちが保有する、例えば、血筋ごとの競走成績のようなデータ量は本当に素晴らしいと思うこともしばしばです。
私自身の論説にも当然のことながら反省点は多々あり、たたえ合う部分は相互にたたえ合い、間違ったことが見つかった場合は真摯にそれをお互いに自ら認め合っていきたいのです。
傷を舐め合っていては何も進みません。あらゆる面でサークル全体が前向きに切磋琢磨して行かねばと思うのです。
こちら でも触れたとおり、私自身、今後も利害関係にしばられることなく、迎合することなく、
自らの考えをきちんと発信していければと思っております。
(2020年3月6日記)
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