「失敗」という言葉の持つ意味

日本においてはダイヤモンド・プリンセス号から始まった今般の新型コロナウイルス騒動ですが、 医師で神戸大学教授の岩田健太郎氏がネットにアップした船内の状況や氏の見解については物議を醸しました。 私は、ツイッターをはじめとする氏のコメントをそれなりに追ってきましたが、 ほぼ氏の考えには同調しています。

その中でも特に、来月インターナショナル新書から発売される氏の著書 『感染症は実在しない』 の「あとがき」について、 発売前ながらも こちら にアップされていたので早速読んでみたところ、 頷いてしまう箇所がいくつもありました:

「科学は失敗する。新しい問題に取り組むときは、特にそうだ。科学は無謬ではない。 研究活動とは、既存の世界観の外側に出ることを希求し、既知の概念を破壊し、未知の領域に新たな概念を創り出さんと望むことだ。 その場合、失敗は必然的な結末だ。少なくとも、一定の確率でそれは起きる。(中略) だから、失敗するのは科学的失敗ではない。 科学的失敗は、失敗そのものによって起きるのではない。失敗は認知され、評価され、吟味され、改善の糧とされ、そして未来の成功の燃料として活用されればそれでいいのだ。 『失敗』 と 『科学的失敗』 は意味が違う。 『科学的失敗』 とは、失敗の認知に失敗し、評価に失敗し、吟味に失敗し、改善に失敗し、未来の成功に資することないままに終わるような失敗を言う。 これこそ本質的な失敗である」

同感です……。そして岩田氏はコロナ対策における今般の英国の対応について、以下のように述べています:

「英国は失敗した。初手の出し方において失敗した。しかし、失敗の認知には失敗しなかった。よって、科学的であり続けるという点においては一貫性を保っていた。 『朝令暮改』 が繰り返されるのは、科学的な一貫性の証左なのである。プリンシプル(原則)の一貫性と言い換えても良い。 非科学的な議論においては結論だけが一貫性を保つ。が、プリンシプルにおいてはグダグダである。というか、そもそもプリンシプルが存在しない。 自分の主張を正当化することだけに汲々としているからであって、最初から科学に誠実であることを放棄しているのである」

特に、ここに書かれている 「非科学的な議論においては結論だけが一貫性を保つ」 の部分については、私自身、大きく頷いてしまったのです。 これは 「先に結論ありきの思考の危険性」 に書かせて頂いたことと相通ずるものがあります。 また 「信仰」 も同様であり、「進化論と創造論(米国における科学不信の現場)」にも書いたとおり、 創造論の支持者は、どのような科学的事実が新たに解明されたとしても、信ずる対象は全く不変です。言い換えれば、先に結論ありきなのです。

「鷲田清一先生(※)は、コミュニケーションとは対話が終わったときに自分が変わる覚悟を持っている、そういう覚悟のもとで行われるもののことである、と述べている。 日本におけるコミュニケーションの様相はそうではない。同調圧力に抗うのは 『コミュ障』 である。異論を唱えるのは 『コミュ障』 である。 深夜に行われる討論番組で、参加者が番組の終わりに 『おれ、意見を変えたよ』 ということは起きない。彼らは議論をしているのではない。演説を繰り返しているだけなのである。 だから、自説は一ミリも変わらない」

これは 『朝まで生テレビ!』 のことを言っているようですが、笑ってしまいました。 「異論と議論のススメ」 でも書かせて頂いた 「ムラ社会」 の構成要員もまさしくです。

サラブレッドの血統理論を見渡せば、例えば、科学的にも疑問が多いインブリーディングに関する言説は昔も今も散見されますが、 これらを発する者が、劣性(潜性)遺伝子が2つ重なるといったインブリーディングの在り方や、その効果や弊害を誘発するメカニズムを理解しようとする気持ちが依然乏しければ、 その基本的概念は改善されることなく今後も発信され続けるのでしょう。米国において創造論が依然根強いのと同じです。

(※)日本の哲学者(臨床哲学・倫理学)

(2020年3月28日記)

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