完全な血統書など存在しない(その5)
ふと、自分自身の「血統」について考えてみたのですが、サラブレッドに比べたらあまりに穴だらけです。
母方は茨城の片田舎における農家の家系なのですが、父方の祖父は兵庫の淡路島の出身らしいということぐらいしか分かりません。
父は10人きょうだいで、子供の頃に横浜に一家でやってきたのですが、私が生まれた時には父の両親は既に他界していて、
いろいろと触れられたくない過去もあったようで、祖父母の話をすることはタブーのような空気がありました。
よって、5代前とまではいかなくとも3代前までの祖先の全てがクリアでなければ「人間」として認められないとされたなら、私など一発でアウトですね!
そんな私も、若いころ自分のルーツが気になったことがあり、父方の遠縁が兵庫の宝塚にいるということで訪ねて行ったことがあります。
そこには「堀田さん」がたくさんいたのには感動したこともここでちょっと思い出しました。
本題に話を軌道修正しますが、往時はジェネラルスタッドブックの発行のような精力的な動きがあった反面、世界の競馬界は当然のことながら温度差もあり、
正確な血統などどうでもよかったという空気があったことも事実だったのではないでしょうか?
だからこそ前回の その4 で言及した「 or 」のような記載が血統表中にいくつも存在したのではないでしょうか?
「この馬の父はAかBであることは間違いない。つまり、どっちにしたってサラブレッドなんだからいいじゃないか」というようなものです。
その4 で書いたミラにしても、当時のサークルを取り巻く空気はそのようなものだったことは容易に想像できます。
一定レベルの競走能力があり、競走馬として十分に使えるようであれば、それで十分というようなものです。
ところで、ウィキペディアの
「サラブレッド系種」には
「先祖が全て国際血統書委員会に登録されている馬でも、8代以内に血統不明の馬がいる馬はサラ系とみなす」とあります。
前回の その4 でディープインパクトの7代前には血統が怪しい祖先がいることを書きましたが、
もしもこのルールが厳格適用されるのであれば、ディープはどうなってしまうのでしょう???
Gold Bridge の父は Golden Boss ということで現在の血統書における「確定事項」なのだから、
「Swynford or Golden Boss」などという過去の記載こそ何かの誤りであったということなのでしょうか……。
天下の『優駿』や『日本の種牡馬録』には当時はこのような奇異な血統表がいくつも掲載されていたにもかかわらず、
これについての議論を聞いたことがないのが不思議なのです。
8代ぐらい前までの血統表を用いた理論を展開する論者にしてみれば、当然ながらこのような議論は絶対に避けたいでしょう。
もしも過去の血統記録には誤りがあったとされたなら、その理論は根底から崩れるわけですから。
つまり、現在の競馬界は一旦事実として確定させた記録の上に全てが回っているわけであり、
既存の血統書の信憑性の議論など究極のタブーであって、テコでも動かなくなっているわけです。
母性遺伝するミトコンドリアの遺伝子は、核の遺伝子よりも変異率は10倍程度高いとされます。
よって同じ母系の馬同士でも、個々の形質(=生物における個々の特徴)に作用するミトコンドリアの遺伝子の質の差は確実に生まれているはずで、
同じ母系でありながら、活躍馬を多く出す枝葉などはその例のような気がするのです。
しかし同じ牝系であれば、形質に作用しないながらその系統に特有の型の遺伝子を持ち続けるわけですが、
その2 でも触れた論文のとおり、血統書上の牝系の遺伝子型に合致した現世のサラブレッドは6割しかいないとのことです。
ここで考えてみて頂きたいのです。このような科学的な解析結果を尊重し、世界の競馬サークルは一念発起して過去の血統記録の見直しに取り掛かるのか?
それともこのあとも延々とこの問題を看過し続けるのか?
仮に看過し続けたとしても、「競馬」というものの運営には何も支障はないのでしょう。
しかし、さらなる科学の進歩により、将来においてこれら血統記録の誤りが間違いないとされた場合を想像してみて下さい。
21世紀はじめに生きたわれわれは、遺伝子解析技術の黎明期に生きたにもかかわらず、後世に正確な血統記録を残す努力を怠ったと、
50年後、100年後のホースマンたちに言われてしまわないでしょうか?
その3 で書いたことを繰り返しますが、科学的な解析によって何らかの誤りや曖昧な部分が過去の記録に見つかったならば、
それを真摯に修正して、分からない部分は分からないとして、確実な部分のみを後世に伝えていくことが『ジェネラル・スタッドブック』のような書物を発刊した先人に対する敬意であり、
「THOROUGH(=完全なる)BRED(=血筋)」という言葉に対する礼儀であり、次世代に対する使命であると考えます。
(2021年8月1日記)
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