「絶対」「必ず」という言葉の値崩れ
先週の新馬戦でステルヴィオの全妹たるステルナティーアが快勝しましたが、テレビ中継を見ていたら、
私よりも歳上であるベテランのトラックマンが「絶対」だったか「必ず」だったかの枕詞を使って
「この馬は来年のクラシックに乗ります」と堂々と言い放っていたことに、かなりビックリしてしまいました。
単に新馬勝ちをしただけの若駒が、今後どのような成長曲線を描くかなど誰もわかりませんし、故障することだってあるのに、と。
「絶対」も「必ず」も、その言葉には100%例外はないという意味を持つことから、このトラックマンに対して、
「故障のようなアクシデントもあり得ないと誓うのか!!」などとつっかかると、「おとなげないこと言うなよ……」とたしなめられるのが関の山でしょうね(笑)。
こちら にも書いたような人気を博す予想屋の演説は間違いなく断言調です。
ファンはその内容よりも、その言葉の「切れ味」に酔い痴れたいわけであり、そしてその断言内容がはずれても、競馬をエンタメの世界としているファンであれば、
「あ〜ぁ、またか……」で全てが終わり。つまり、あくまでエンタメの観点では、その言葉尻を捕らえることはルール違反であって、
「絶対」にしても「必ず」にしても、この世界においてはその言葉には当然ながら例外がありうると皆が暗黙の了解をしているわけです。
しかしながら、昨今はエンタメの世界のみならず、こちら に書いたように、筆頭為政者たる菅総理がこの言葉を安直に使用し、
その結果に対してなんら責任を負わない姿に、この言葉の厳格な意味合いが急激に値崩れを起こしていると思わざるを得ないのは私だけでしょうか?
独自の血統論に基づく競馬予想を展開して人気を博している評論家の動画をあらためて見たのですが、
このようにファンをたくさん取り込んでいる評論家の論調は思ったとおりに単純明快で断言調です。
上述の予想屋同様に、そのような論調でないとファンを取り込めないのでしょうが、まさしくそこに重要な論点が介在します。
以前読んだ『男の弱まり 消えゆくY染色体の運命』(黒岩麻里 ポプラ新書)には、
「私たち科学者は断言をさける傾向があります。結論を述べる時に『〜だ』と断言することはせずに、『〜の可能性があります』『〜という考え方も残されています』
といった具合です。(中略)多くの科学研究がとるアプローチ法とは、立てた仮説をひとつひとつ否定していく作業なのです。
現在までの研究成果からは、ここまでの仮説が否定できたけれども、まだ否定しきれない仮説が残されている以上は、100%断言はできないのです」……とありました。
このことから思ったのは、もしもバリバリの科学者が競馬の評論家になりたいと思ったとして、しかしそのような科学に忠実なマインドから抜けきれないとしたなら、
良いか悪いかを単純明快に切れ味抜群に言い切る弁舌でファンを取り込むことなど、はかない夢となってしまうのでしょう。
池上彰さんの『わかりやすさの罠 池上流「知る力」の鍛え方』(集英社新書)には、
「『難しいことをわかりやすく』というのは、私がこの三十年間ずっとモットーにし続けてきたことです。
しかし、最近になって、どうも、少なからぬ人たちが『わかりやすさ』の罠にはまってしまっているのでは、と心配になってきました」とありました。
私は、「絶対」や「必ず」という言葉の乱用は、昨今のわかりやすさばかりを求めるマインドの席巻と密接な関係にあると思っており、
さらには、こちら に書いたデジタル思考とも密接な関係があると思っています。
別途私がしつこいまでに問題提起をしている、深慮のない同系交配の頻発による遺伝的多様性の低下に対する施策ですが、
その必要性の有無に関する議論を始めるにしても、先ずは関係者の面々が「遺伝」に関する最低限の科学的知識を持たなければどうにもなりません。
けれどもその面々は、わかりやすさばかりを求めてきたマインドゆえに難しい事項からは依然として視線をそらし、
いざ議論を開始する段になっても当たり前のことをきちんと認識できていない……というような状況がどうしても目に浮かんでしまうのですが、杞憂でしょうか?
「絶対」とか「必ず」とかいう言葉には例外という概念が本来は含まれていないことから、その先の答えは本来は1つであって、つまり、
そのような言葉を投げかけられた者は迷いが払拭された想いとなり、なんとなく安心した気持ちになってしまいがちです。
上述の池上彰さんの著書には、「アメリカの有権者は『難しい話を難しい英語で語る』ヒラリー氏を敬遠し、
『単純な話をやさしい英語で話す』トランプ氏の『わかりやすさ』を選びました」とありました。
来週、我が横浜では市長選挙があるのですが、有権者が、公約や演説で「絶対」や「必ず」という枕詞を安売りする候補者が仕掛ける「わかりやすさの罠」
にはまることなく、本当に市政を任せられる新しい市長が選ばれることを祈るばかりです。
(2021年8月15日記)
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