不寛容の世情に思うこと

人はAかBかという2つに1つの心理になりがちです。これは以前「デジタル思考の弊害」に書いたとおりですが、 最近の究極の例はアメリカの大統領選です。 現地在住のジャーナリストがラジオで、アメリカ国民は政治を共和党対民主党の1対1のバトル、 つまり「勝ち」か「負け」かのようなゲーム感覚で見るようになってしまったと嘆いていました。

一方で、われわれの身の周りも昨今は同様の傾向に拍車がかかっているような気がしてなりませんし、 あらためて、有るか無いか、白か黒か、右か左か、YesかNoか、に陥りがちだということを、アメリカという大国における騒動を横目で見ながら思ってしまったのです。

先月、菅総理は新型コロナウイルス感染症に対する緊急事態宣言に際して、「1か月で感染拡大を"絶対"に阻止する」と言いましたが、 この「絶対」という言葉の安直な使用こそ、YesかNoかのマインドに侵蝕されています。 AかBかを安直に判断できないようなことについてもいとも簡単に断言してしまう(断言しなければならないと思ってしまう)デジタル思考。 断言調の言葉には気をつけた方がいい旨は こちら 等でも書いてきました。

他方、菅さんのこのような発言を一方的に非難するのもYesかNoかの発想に陥っているということにもなります。 菅さんを批判しきれないのは、われわれ国民は為政者からの「絶対」というような単語を使った断言調の言葉を欲しがっていて、 つまりこれは こちら に書いたゼロリスクマニアにおける「安心要求」なのですが、 それに応えようとしている健気な菅さんの姿かもしれないのです。

複雑化した現代社会においては、一方的にどちらが正しい、どちらが間違いということは稀有です。 右派も左派も、保守もリベラルも、それぞれに正しい部分は当然にあります。 しかし、どうもそれが、互いに相手方を全否定することを感情的に繰り返していないでしょうか?

別稿では繰り返し疑似科学的血統理論の問題点を書いてきましたが、以前、「自分が慕っている論者を悪く言うな!」というような声を頂戴したことがありました。 そのような声を受けた時に先ず思ったのは、慕っている人の考え方や発言ならば、全てOKととらえるのか? ということです。 ちょっと失礼な言い方をすれば、可愛い自分の子がいくらいたずらをしても「よしよし」と頭を撫で続けるのかということです。

雑誌やウェブサイトで連載を持っている血統論者の言説には「???」と思うことがしばしばあります。その一方で、彼らの手持ちデータは素晴らしいなと感心することもしばしばです。 「異論と議論のススメ」 でも書いたように、 日本人は自らが発した或るひとつの考えを否定されただけで人格さえも否定されたと感じてしまう傾向があるようですし、 また日本では高名な学者の学会発表においてはその学者の顔色を窺い無難な質問しか出ない空気があるような話にしても、 こちら に書いた科学ジャーナリストの榎木英介氏が言っていた 「相互批判が研究不正や問題行為を防ぐのには非常に重要で、上司部下関係なく批判できる環境がある国は研究不正が少ないというデータがある」 という話とセットで考えるべきものであります。

私がサラブレッドの血統に興味を持ち、このようなライフワークに育て上げられたのも、山野浩一さんの存在は大きかったと思います。 私が師と仰ぐ山野さんだからこそ、こちら に書いたような横道にそれた言説には黙っていられませんでした。 また、いまも懇意にさせて頂いている山野さんの弟子であった吉沢譲治さんとの出会いにしても、こちら に書いたとおり、 吉沢さんの著書の言説に対する疑問の指摘からでした。

異論と議論のススメ」で引用した「厚切りジェイソンが語る「異論と議論のススメ」」 にある「違いは不快、でも安定には成長はない」との言葉にはあらためて深く頷くのです。

(2021年2月14日記)

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