近親交配(インブリーディング)とは何か?(その5)

遺伝学においては近親交配の度合いを示す「近交係数」というものがあり、F=Σ[(1/2)n(1+FA)] という式で示されるのですが、 サラブレッドの近親交配を研究する場合に、この係数をそのまま用いるのは、以下の理由からあまり適切ではないと私は考えています:

 ‐サラブレッドは近親交配を執拗に繰り返してきているので、FAの値およびΣの合計値を厳密に算出するのは不可能
 ‐近親交配の「効果」は、劣性(潜性)遺伝子がホモになることで発現し、優性(顕性)遺伝子がホモになることとは基本的には無関係

凱旋門賞を連覇した Enable は Sadler's Wells の2×3ですが、ちょっとこの馬を例に考えてみましょう。 父方を見ると3代前に Sadler's Wells がおり、よって Sadler's Wells の 特定遺伝子をもらう確率は 50%×50%×50%=12.5%(以下@) となります。 他方、母方を見ると2代前に Sadler's Wells がおり、こちらからそれと同じ遺伝子をもらう確率は 50%×50%=25%(以下A)となります。 近親交配の「効果」とは父方と母方から同じ遺伝子を同時にもらうことにより発現するため、 @とAの掛け算の値である 3.13% がその効果発現を考察するベースの数値となります。

サラブレッドの近親交配を論じるには、「近交係数」を或る意味で簡略化した上述の数値を用いるのが端的で好ましいと考え、 勝手ながらも私はこれを「近交値」と命名し、拙著では、2012年6月2日から11月4日にJRAでデビューした馬1998頭における近親交配と競走成績の関係について、 この近交値を用いた統計解析結果を掲載しました。以下はその要旨です。

まずは以下の群を設定しました:

 成績良好馬: 2013年5月末までのJRAの競走で、3戦以内に勝利、2勝以上、または特別レース勝ちの馬
 成績不良馬: 2013年5月末までのJRAの競走で5戦以上経験も未勝利の馬

次に以下における近交値に有意差があるかの統計解析を行いました:

 (1)「成績良好馬」と「成績不良馬」
 (2)「社台グループ生産馬」と「非社台グループ生産馬」
 (3)「社台グループ生産の成績良好馬」と「非社台グループ生産の成績不良馬」

結果は以下のとおりです:

 (1)は有意差なし
 (2)は有意差あり(社台グループ生産馬の方が近交値が低い)
 (3)は有意差あり(より明確に社台グループ生産馬の方が近交値が低い)

さらに、解析した馬のうち内国産馬は1948頭だったのですが、近交値が1.50%以上の馬は、社台グループ生産馬は313頭中7頭(2.2%)であった一方で、 非社台グループ生産馬は1635頭中57頭(3.5%)でした。また、近交値が0%の馬は、社台グループ生産馬は76頭(24.3%)であった一方で、 非社台グループ生産馬は303頭(18.5%)でした。これら数値からも、社台グループは相対的に近親交配が少ないことが見受けられます。

なお、私が行った上記解析は近親交配の一側面からの検討にすぎず、この結果だけでは近親交配の在り方を判断すべきものでもないことは当然のことです。

ただし、現時点で私自身自負しているのは、サラブレッドの近親交配についてこのようなデータ解析をしたものは他にあまり例を見ないということです。 今回解析した1998頭のうちの内国産馬1948頭における近交値の平均値0.4076%は日本の生産界における平均値に非常に近いと推察され、よって、 これに照らして高い数値の配合を選択するのか否か、生産者の方々には生産の指標に使って頂けたらと切に思うのです。

実は、今回この話を書いたのは、いま発売中の『優駿』2019年7月号の「新時代の競馬に向けて」と題した吉田照哉氏、藤沢和雄氏、武豊氏の三者対談の中で、 照哉氏が発した以下のコメントが私の頭の中で非常にひっかかったのがきっかけです:

「ノーザンテーストには強いインブリードがあって、レディアンジェラの3×2が入っている。 その頃は、あまり近親交配が強いと健康な馬に育たないとか、走らないとか、いろいろ言われたけど、実際には現役としても走ったし、 種馬でも成功して、そのうえ33歳まで長生きした。あの馬に出会って、世間で言われている常識なんて信じられないと思ったね」

きつい近親交配でも健常な馬はいくらでも生まれます。 しかし、ハプスブルク家の悲劇を例に出すまでもなく、きつい近親交配の場合においては非健常馬が生まれる割合が高まることは確かです。 照哉氏がノーザンテーストと出会ったのはセリの場であり、セリに上市される前段階では当然ながら非健常馬は淘汰されているのです。

サラブレッドは生き物です。生き物は、金型を用いれば一定のものが産出されるような「物」とは全く違いますし、 全きょうだいでも全く違ったキャラクターになることは こちら でも書いたとおりです。 そもそも、漠然と「常識」がどうだとかいう議論に落とし込める話ではないですし、科学的事実も常識の一部としたならば、 それさえも信じられないと言っているのだろうか?……と邪推さえしてしまいます。

上述の統計解析では「社台グループ」と一括りにしました。 しかし、遺伝学を含む多方面からの科学的アプローチを確実に実践しているであろう(と私は考えている)現在のノーザンファームの独り勝ちの様相を見ると、 もはやそのような括りはできなくなってきたのではないかと、この照哉氏の発言を見てそんなことまで思ってしまったのです。

(2019年6月30日記)

 上記の統計解析は、拙著『サラブレッドの血筋』の初版の発行(2016年4月)に先立ち行いました。 しかし状況は変化し、ポストサンデーサイレンスの現在、例えば こちら に書いたようなことが実際です。 つまり近年の社台グループは逆に深慮のない近親交配に傾倒している気配さえあります。 「近交値の平均値0.4076%は日本の生産界における平均値に非常に近いと推察され」と書いたのですが、今後この値は益々上昇しそうです。 よって上記は、過去のデータと捉えて頂ければと思います。
 本解析は、社台グループの4ファームを1つの群として扱いました。しかしこれら4ファームの生産や育成に関する考え方は違うものがあり、 今後新たな解析を行う場合はこれらを別々の群に設定する予定です。
 なお、こちら に書いたとおり、競走馬の個々の成績の観点において単純に近親交配と異系交配の良し悪しについては論じきれないこともあり、 果たして上記のような解析に意義があったのかと現在は思っているのです。

(2024年9月15日追記)


近親交配(インブリーディング)とは何か?(その6)」に続く

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