「伝える」ということを考える(その2)

養老猛司氏の著書『文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す』(PHP新書)は理系領域の人たちとの対談集なのですが、 工学博士で小説家の森博嗣氏は以下を述べています。

「文系の人は、自分のわからないことを言葉で解決しようとします。 たとえば、独楽は回っているから倒れない、自転車は走っているから倒れない、ということを『理屈』だと思い込んで納得し、それで解決済みにしてしまう。 回っている物がなぜ倒れないのか、走っているとなぜ倒れないのかは考えようとしません」

ところで、前回 も紹介した『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』(三井誠 光文社新書)の「第4章 科学をどう伝えるか?」では、 難しい科学研究を一般の人たちに伝えることに関する試行錯誤について詳述されています。

或るシンポジウムでは、コミュニケーションに消極的な科学者の姿勢が繰り返し指摘されたとのこと。 また或るセッションでは、科学者が冷徹な論理に従って事実を話しても、「信頼」と「共感」がなければ上手く伝わらず、科学者は「とにかく正しいことを伝える」 という発想に陥りがちで、それがコミュニケーションを阻んでいるとの指摘があったとのこと。 まず、相手が心の底では何を考えているのかを理解しなければならず、頑なな心を開かせるのはデータではなく、まさしく「共感」であるとのことです。

上記は、私自身として、かなり痛いところを突かれた想いがあります。 例えば、別稿で何度か「メンデルの法則のような遺伝の基本を理解せずに配合を論じるのは、憲法の条文を読まずに憲法を論じるようなものだ」と僭越なことを申してきました。 以前、原稿のオファーを下さった競馬サイトの主催者からは、理系ファーストのような論調は喧嘩になってしまう可能性がある、というようなことも言われたことも思い出しました。

前回 の最後に、 確かなコミュニケーションとは、情報の送り手の「相手の立場に立つ思慮」と、受け手の「理解しようとする心構え」があって初めて成立する、 と書いたのですが、私自身においても「相手の立場に立つ思慮」が不足していたことは否めなく、反省しなければと切に思ったのです……。

興味を持って頂くという気持ちが科学者の大半には欠けているように見受け、興味を抱いてもらうような努力が科学界全般に絶対に必要です。 そんな努力が欠乏しているからこそ、子供たちの「理科離れ」は加速するのです。

サンデーサイレンスやディープインパクトの血の蔓延による遺伝的多様性の低下、そこから波及する問題や取るべき方策について、 きちんと生産界で講習会を開いたりして啓発するような動きは殆ど耳に入ってきません。

「なぜ極度の近親交配はリスクが高いのか?」

「なぜ芦毛と芦毛の両親からも鹿毛や栗毛が生まれるのか?」

以上のような遺伝の基礎は、こちら でも書きましたが、高校の理科(生物)をきちんと勉強していれば理解できていて当たり前かもしれません。 しかし、残念ながら、それをきちんと理解している競馬関係者はかなり少ないのが現状です。 JRAを含む各種団体は、「当たり前」は当然に認識されているという前提に全てが基づいているような気がしてならないのです。

繰り返しますが、A級科学者たちは、このような「基本」の話には見向きもせずに素通りして、小難しい話ばかりをわれわれに説いていませんか?

こちら にも書いたとおり、私は「ゲノム」の意味の理解に苦しんだB級科学者です。 よって、A級科学者と競馬サークルとの橋渡しが、B級科学者の私がやるべき使命だと考えています。

頑張ります。試行錯誤の連続ですが。

(2019年9月1日記)

「伝える」ということを考える(その3)」に続く

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