「伝える」ということを考える(その3)
先ほど行われた有馬記念はドウデュースが快勝しました。
3日前の公開枠順抽選会後は、枠順の有利不利の論議をこれでもかこれでもかと目にして耳にして辟易していたので、
8枠となったスルーセブンシーズかスターズオンアースが勝ったなら、「外枠は本当に不利か?」
の続編を書こうかとも思っていたのですが、残念ながらまたの機会にしたいと思います。
それにしても、2着スターズオンアースのルメールの手綱さばきは絶妙でしたし、7番人気とはちょっと評価が低すぎましたね。
話をリセットします。「『伝える』ということを考える」と題したものは4年前に(その1) (その2)と書きました。
今回はその続編を書きたいと思います。
府中の東京競馬場内の競馬博物館では、来年の2月18日まで特別展「白毛図鑑 純白のサラブレッド」が開催されています。
本コラム欄では「遺伝学的にも興味深いシラユキヒメの白い一族」と題したものを
(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6)
と書きましたが、最近で白毛と言えばソダシ、そしてそのシラユキヒメの牝系というわけで、この特別展ではこれら牝系の馬やその遺伝メカニズムを中心に、
興味深い説明パネルがいくつも展示されています。
また、配布されているオリジナルの冊子もかなり奥深い内容であり、「遺伝」というものに普段はあまり関心を持っていない方々にもとても有用な資料であるとともに、
立派な学術資料でもあります(画像1 画像2 画像3)。
ところで、その特別展の現場で こちら のパネルを私の横で熱心に眺めていた人が、
「芦毛の遺伝子を持ったうえで白毛の遺伝子を持つと白毛になるのか……」と言っていたのを耳にして、
「伝える」ということが本当に難しいということを再認識しました。
このパネルのレイアウトをちょっと変えたものが、もうひとつ配布されていた小冊子「白毛ミニ図鑑」にあった こちら の図です。
いまこれらを見て、その人と同様に、芦毛の遺伝子を持ったうえで白毛の遺伝子を持つと白毛になる、
つまり白毛になるには芦毛の遺伝子も持つ必要がある、と思ってしまった方ももしかしたら少なくないのかもしれませんが、
それは間違いです。このパネルおよび図は、栗毛の遺伝子を持っていようがいまいが、鹿毛の遺伝子を持っていようがいまいが、芦毛の遺伝子を持っていようがいまいが、
白毛(顕性白毛)の遺伝子を持っているならば、問答無用で白毛になるということを説明しているのです。
こんな喩えをしてみましょう。或る会社では、自社の販促品としてサラブレッドのぬいぐるみを作成することになり、その毛色はどうするかということになりました。
係長は、鹿毛か栗毛かどちらかがいいと思い、最終的に鹿毛にしようと言いました。
しかしその上司の課長は、自社のイメージを鑑みると鹿毛よりは芦毛の方がいいと言い出してきました。
当然に課長と係長の上下関係から、その方針は芦毛となりました。次に、その課長は上司たる部長に、自らの方針案たる芦毛を提案したとしましょう。
しかし、残念ながらその方針はその部長に一蹴されました。なぜなら、「白」を自社のイメージカラーと思って譲らない部長の脳内は白毛一択だったからです。
よって、この会社の販促品のぬいぐるみの毛色は白毛と決まりました!
奇妙な喩えをしてしまいましたが、つまり係長が鹿毛を進言しても、課長が芦毛を進言しても、部長が白毛ということを譲らない限り、答えは白毛ということです。
課長や係長が時間と労力を割いて部下とともにどの毛色がいいかと検討を繰り返してきたとしても、結論は最初から決まっていたということです。
白毛(顕性白毛)の遺伝子を生まれつき持っていたならば、他にどのような毛色遺伝子も持っていたとしても、ソダシのように白毛になるのが一本道だということです。
このパネルや図からは、その旨をできる限りわかりやすく説明しようとする努力が痛いほど読み取れるのですが、けれども上記のとおり、
どうしてもうまく伝わらない部分があるということです。
「拙著に頂戴した書評から」でもちょっと触れましたが、拙著『競馬サイエンス 生物学・遺伝学に基づくサラブレッドの血統入門』
を批評する動画もあり、このように深く関心を持ってくださることは非常に有難いことです。
ただ、その動画の主の言説にはうなずく部分もある一方で、どうしてそういう解釈に発展してしまうのだろうか……と思ってしまう部分もあり、
伝えるということの難しさをあらためて思い知らされます。
先日、拙著を読んでくださった方のSNSでの非常に嬉しいコメントに、「読んで有用だった本オブザイヤー。生物学と血統論の架橋に挑んだ意欲作。
と同時に、生物の教科書的知識の解説を超頑張ってるし分かりやすい……のだが、紙面の限界はどうしてもある。
日本では毎年10万人高校生物選択者が発生していて、その人たちは余裕で理解できるはずなのだが、実際どうだろう」(原文抜粋)というものがありました。
まったくそのとおりで、紙面等で伝えるにはどうしても限界があります。
拙著の文量には上限があって初稿から削った部分もあったことからも、言い足りなかったな、こんな表現にすればよかったな、と思った箇所もそこそこあります。
よって、それら箇所はこのウェブサイトのコラム等でフォローしていきたいと思っています。
以上のようなことこそ、まさしく拙著の第8章「サイエンスコミュニケーション」に書いた論点でもあり、
物事をいかにうまく伝えるかについては、今後も自分なりの追究を続けて参ります。
(2023年12月24日記)
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