外枠は本当に不利か?

5日前の 18 日(火)のスポーツ報知で、こんな私を こちら のとおり取り上げて下さいました。 この記事のネット版は こちら で、 思ったより大きく取り上げて頂き嬉しい限りです。 まあ、それでも字数には制限があるので伝えきれていない部分もあり、そこのところは本コラム欄で「遺伝学的にも興味深いシラユキヒメの白い一族」と題した その1その2その3その4 を読んで下されば嬉しいです。

ところで こちらでは、確かなコミュニケーションとは、情報の送り手の「相手の立場に立つ思慮」と受け手の「理解しようとする心構え」 があって初めて成立すると書いたのですが、メディアにも登場させて頂くようになって認識すべきと切に思ったのは、発信する側の責任と受け手の在り方です。

いま手許に数日前に買ってきた雑誌『ナンバー』のダービー直前号があるのですが、そこに載っていた こちら のトウカイテイオーのゼッケン 20 番の写真を見ると、いろいろと思うものがあります。 丁度 30 年前(1991年)のこの時は 20 頭立ての最後のダービーであり、トウカイテイオーは大外に単枠指定(←もはや死語)されたのですが、 われわれ 28 頭立てのダービーを見てきた世代は 20 番が不利などと思いませんでしたし、当時はそのような声もほとんどなかったような気がします。 後年のサニーブライアンにしてもジャングルポケットにしても 18 番の大外からの勝利でしたが、それほど枠順論議はなかったと思いますし、 トウカイテイオーは(サニーブライアンも!)前走の皐月賞でも大外 18 番での快勝でした。

しかし近年はどうでしょうか? GIで枠順が発表になると、枠が外になってしまった馬の記事やファンの書き込みはネガティブなもので溢れます。 今日のオークスにしても、18 番を引き当てたステラリアの某掲示板を覗いてみましたがまさしくでした。

確かに、一昔前とは競馬場のコース(芝)の質も変わったことからも、「昔はここまで枠にとやかく言わなかったぞ」と一概に言えないことは分かってはいますが、 しかし果たして、これら記事やファンの言葉のとおりに外枠は不利なのでしょうか?  みんながみんな不利だ不利だと言ってしまうから、騎手や調教師の敗戦の弁のエクスキューズにも使われてしまっていないでしょうか?  そしてどんどん外枠が不利なような空気が醸成されてしまっているような気がしてしまうのです。

仮にフルゲートが 15 頭だったとしても 12 頭だったとしても、「大外」を引いた馬は不利を嘆く言葉に自ずと包まれてしまうのかもしれません。 あらためて今日のオークスにしても、 こちらの記事 のように、注目のソダシがたかだか6枠 11 番なのに見出しに「試練」と書くこと自体が、 若干でも外の枠に入った人気馬についてネガティブな見出しを打てば読者の気を惹けると浅薄に思い込んでいる証しです。 つまり、外枠に入った馬の陣営が仮にちょっとでもネガティブなコメントを発したならば、 記者はこれ幸いにそこの部分だけに食らいつき、内容を増幅させて記事にしていないかということです。

当然ながら内枠にだって不利があります。昨年の皐月賞でのコントレイルにしても、最内枠の1番で包まれるリスクを負いながらも鞍上の福永が上手く捌いて勝利に導きました。 もしもあれで負けていれば内枠のせいにもできたはずですが、多分メディアもファンも外枠で負けた時ほどはそこをつっつかなかったのではないでしょうか。

これらのことから思うのは、芸能人や政治家のような著名人が、自らが言ったことの一部分だけを切り取られて報道されたと嘆きのコメントを出すことがありますが、 情報を受け取る側も こちらでも触れたとおり、視野を広めて情報を的確に読み解く力たる「リテラシー」 を自ら育むことが益々重要になってきているということです。

また、こちら にも書いたとおり、例えば「AはBより濃い」と書くと「堀田は絶対にAと言っていた」なんて感じで受け取られてしまうこともあり、 発信する立場としては、できる限り誤解を受けないような表現を心がけねばとあらためて肝に銘ずるわけです。

(2021年5月23日記)

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