ネガティブ・ケイパビリティ
「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
ウィキペディア では
「詩人ジョン・キーツが不確実なものや未解決のものを受容する能力を記述した言葉。日本語訳は定まっておらず、『消極的能力』『消極的受容力』『否定的能力』
など数多くの訳語が存在する」とありますが、とりあえず私は、この言葉の持つ意味は、「無いものは無い」「分からないものは分からない」と真摯に認め、
それを受容する能力と理解しています。
ところで先日、麻生副総理がコロナ対策に言及した際、こちらの記事 のとおり、
「医者の話はコロコロ変わってよく分からない」と相変わらずのいつものあの口調だったようでありますが、医学は日進月歩であり、
こちら でも書いたとおり、科学の進歩とは、新しい発見により昨日は正しいと言われていたことが今日はそれが間違いだと気づいた場合に、
それを真摯に認め合うことによって成り立っているわけです。
ノーベル賞を受賞するような新奇な発見があるということは、われわれが生きる世界は依然として分からないことに溢れているということです。
別途私は母系の重要性を説いているのはご存知のとおりですが、こちら にも書いたとおり、
私は30年以上の長きに渡り、血統と言えば父系(サイヤーライン)ばかりを追いかけていました。
高校生の時、休み時間に(←授業中ではない。多分……)学校の教室の机の上で山野浩一さんの『血統事典』を片手に父系樹形図を書いていましたし、
そんな自分が生物学の観点から冷静に血統というものを眺めてみて母系の重要性に気づいたのはたかだか7年前であり、
それでもなお惰性で拙著『サラブレッドの血筋』の初版および第2版では こちら のようなたいそうな父系樹形図を掲載していました。
しかしいま、何十年もの期間に継続的に書き足してきた「著作物」と訣別することになんの未練もありません。
いまの自分の活動においては「真実」の追及が第一であり、サラブレッドの競走能力を血筋の面からアプローチするうえで、別稿では何度も書いてきたとおり、
遺伝子の半分をもらう「父」は当然に大切ではある一方で、「父系」を探究する科学的意義は見出すことはできないと現時点で結論づけたからです。
僭越なことを申せば、そんな未練が全くない自分の心模様はもしかしたら広い意味でのネガティブ・ケイパビリティなのかも……と。
繰り返しますが、われわれの日常においては分からないことや、確かな答えを導き出すことに無理がある事象が溢れています。
けれども、無理矢理にでもそこに答えを作り上げようとしたり、それを求めてしまってはいないでしょうか?
ややもするとそのような場合、無意識のうちに自らに都合の良いデータだけをかき集め、根拠のない恣意的な結論を創出してしまっていないかということです。
いとも簡単に物事を白か黒か断言してしまう疑似科学的理論に始まり、フェイクやデマが社会に溢れることも、
その情報の受け手におけるネガティブ・ケイパビリティの欠如と無縁ではないような気がしてならないのです。
「……は……でしょうか?」のような質問を受けることがしばしばあります。
その際、できる限り、それは Yes か No かと明確に回答して差し上げたいのですが、明確な答えが見出せない場合には、
申し訳ないという想いがありながらも、分からないと正直に答えることを心掛けています。
特に「遺伝」という生命現象はアナログ的なものだということは こちら でも書きましたし、また、
こちら でも書いたとおり、白か黒か、有るか無いか、右か左かをしっかりと区別できる事象は本当に少ないのがこの世の中です。
こちらの動画 は戸田恵梨香さんが演じる中外製薬のCMですが、
その中で以下が述べられています。
「同じ病気だとしても 私たち患者は それぞれ別の人間です 病気の性格も 薬の効き方も みんな違う 治し方は 人の数だけあるべきじゃないですか」
目の前にあるその薬は、貴方には効くが私には効かないのかもしれない。
それがなぜなのかの詳細は解明されていないのが実際であり、まだまだ分からないことばかりなのが生命科学です。
だからこそ、科学的視点を持つということは、ネガティブ・ケイパビリティを備えるということでもあるわけです。
(2021年9月26日記)
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