臆病になる勇気

4日前の天皇賞。圧倒的1番人気のタイトルホルダーが競走を中止しました。 これについて、果たして中止すべきレベルだったのかについて物議を醸しているようですが、 一昨年に発行の vol.5 では私も寄稿した『ROUNDERS』の編集長である治郎丸敬之さんが、馬を止めるのも騎手の仕事であると こちら に書かれています。まったくの同感です。

治郎丸さんがおっしゃっているとおり、馬をレースの途中で止めることは騎手にとって非常な勇気を要します。 中止したはいいものの、馬体の事後検査でどこにも異常が認められなかったとしたなら、巨額が動いている以上、批判は当然に沸き上がるからです。 特に今般はGIレースです。それも単勝1倍台の圧倒的本命馬です。横山和生騎手には、われわれ外野席の者が想像もできないような、 並々ならぬ決断力が瞬時に要求されたことは言うまでもありません。

馬は「生き物」です。機械ではありません。生き物ゆえにその身体の状態も常に変化しています。 よって確実に言えることは、ここまではOK、ここからはNG、というような具体的な切り分けはできるはずなどないということです。 いくらその馬に乗り慣れた騎手でさえ、どこが限界点なのかなど完璧な線引きなどできないのです。これ、至極当たり前の話です。

そして、あとには戻れなくなってしまう「限界点」を越えさせないようにすることが肝要だということです。 もしかしたら、その限界点のかなり手前で中止を判断してしまう場合もあるかもしれませんが、しかしそれは事後の精査で判明することであって、 単なる結果論にすぎないということです。再起不能となる限界点を越えてしまったら、もうあとには戻れません。 致命的な故障は「不可逆現象」であるということ、「覆水盆に返らず」だということです。

1974年という半世紀も前のドラマの話で恐縮ですが、田宮二郎さんが日航ジャンボ機の機長を演ずる『白い滑走路』というドラマがありました。 そのドラマの中で、悪天候の羽田に着陸を試みるも、ほんのわずかながらも滑走路の視認に不安が残ることから機長判断で着陸を断念し、 別の空港に着陸するという場面がありました。着陸後に副操縦士が機長に、「あの程度の羽田の視界ではほぼ着陸可能なのに、なぜ断念したのか?」と問いただしたところ、 「ごくごくわずかながらも不安があれば、そこに乗客の生命を預けるわけにはいかない」という旨を厳しい口調で答えたシーンに、小学生だった私は大きくうなずいた記憶があります。

また、昔読んだ航空雑誌で、全日空を定年退職するベテラン機長が、後輩には「臆病になる勇気を持て」と常々言っていると書かれていたのですが、 まさしく上記のドラマのシーンと重なります。そしてついつい私は、今般の天皇賞と、これらの話とがオーバーラップしてしまったのです。 (すみません、飛行機の話を持ち出したのは、実は、私は昔は航空ファンで、獣医師の免許を取った後に全日空のパイロットを受験したことがあります。当然に落ちましたが)

話がほんのちょっと脱線しましたが、忘れてはならないのは、あと戻りができない状態になる前に未然に防ぐことの意義です。 これについて、私としてもうひとつ言いたいことがあります。

「基礎」と「臨床」」に書いたように、ものごとには「目に見えるもの」と「目に見えないもの」があります。 しかし、双方ともに重要事項だったとしても、前者にばかりわれわれの視点は惹きつけられます。 今般の天皇賞の事例は、タイトルホルダーという馬(=有形物)がわれわれの可視範囲に存在しての話ですから、当然に前者の範疇の話です。 その一方で、私が別途しつこいほどに議論を呼びかけている遺伝的多様性低下の問題は、後者の典型的な例です。 「近親交配(インブリーディング)とは何か?(その9)」にも書いたように、競馬サークルの眼は競走馬として入厩できた個体ばかりに集中します。 しかし、「バイアスのかかった遺伝子プール(その6)」に書いた「ボトルネック効果」が行き過ぎた場合は、もうあとには戻れません。 これこそ「不可逆現象」であり「覆水盆に返らず」なのですが、このような遺伝子レベルの話は当然に目に見えません。 「歯止めがかからなくなる懸念」に書いたように、可視範囲外の事項に対するサークル内のリスク感覚の稀薄化はどんどん加速しているように見受けます。

「目に見えるもの」に対しても、「目に見えないもの」に対しても、バランスよく「臆病になる勇気」が必要だということです。

(2023年5月4日記)

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