バイアスのかかった遺伝子プール(その6)

今回は前回の「バイアスのかかった遺伝子プール(その5)」の続編とします。

先日目にした競馬雑誌の記事で気になる部分がありました。 或る競馬関係者(以下「A氏」)によれば、サンデーサイレンスの血が飽和している日本の生産界ながらも、 サンデーの3×4の配合ができるようになってきた現在は自由度がかなり大きくなったとのことですが、 まずは「「3×4」の呪縛」を読んでもらいたいと思ってしまいました。 さらに、「セントサイモンの悲劇」からは100年以上経った今は血が多様化し、同様の悲劇が起こることはないと思われるとのことで、 その理由として、凱旋門賞を連覇した Enable のような2×3の強い近親交配馬の存在、そして、 ブルードメアサイヤーとして活躍しているキングカメハメハが血の飽和に対する緩衝材(緩衝剤では?)となっているなどの持論を展開していますが、 さすがにこのような言説には言葉を失いました。

まず、Enable のような例を挙げて近親交配は大丈夫と帰結してしまうことは、ごく一部の成功例を見ただけで、それが全てに当てはまってしまうと信じ込む思考です。 「近親交配(インブリーディング)とは何か?(その9)」に書きましたが、 2016年から18年の世界のGI競走に勝った馬で2×3の強いインクロス持ちは Enable ただ1頭でした。ちなみに世界のGI競走は年間約460もあります。 近親交配の負の側面たる遺伝的多様性の低下、そしてその結果たる近交弱勢が、Enable のような馬を作り出す代償だとしたなら、それはあまりに大きすぎませんか?  遺伝的多様性低下に対する警鐘を幾度も幾度も鳴らしてきた身として、 この期に及んで、今は血が多様化しているなどという言葉を目の当たりにすると非常な虚しさを覚えます。

キングカメハメハは緩衝剤どころか増強剤になりうります。 確かにキンカメをはじめとする非サンデー系の種牡馬の名前が各馬の血統表に目立ち始めれば、サンデーのインブリーディングは表面上は緩和されたように見えるでしょう。 しかし、近交度合いを示す「近交係数」とは「近親交配(インブリーディング)とは何か?(その2)」でも説明したとおり、 父方と母方の双方に名が出てくる全ての共通祖先に係る数値の総和です。今後は、サンデーのインクロスとキンカメのインクロスの両方をもつ個体、さらには、 ディープインパクト、ハーツクライ、ロードカナロアなどのインクロスを同時に包含した個体の急増も予想されます。 つまり「緩衝剤」などという言葉を使うことは、近交度合いの解読方法をきちんと理解していないことを自白しているようなものなのです。

他方、この記事で、生産に従事するB氏は、近親交配によって健康面で問題のある産駒が多く出たり、 血の飽和が競走能力を阻害する要因になったりする状況ではないことは確かだと言っていますが、何を根拠にそこまで断言できるのでしょうか?  よく考えてみて頂きたいのですが、仮にA氏の言説にしてもB氏の言説にしても、これらが正しいのであれば、 アメリカで議論が継続している種付頭数制限案など全く無意味でナンセンスということになってしまうのです。

元調教師の言説」にも書いたとおり、競馬界で名を馳せた者の発言は、インフルエンサーとしてサークル内に少なからぬ影響を及ぼします。 当然に馬産を生活の糧としている牧場関係者への影響も大であるということを忘れてはなりません。

前回 の最後の部分で紹介した論文「Founder-specifc inbreeding depression afects racing performance in Thoroughbred horses」では以下が書かれていました。

「Population bottlenecks that occurred during the ancestry of the Thoroughbred, including the domestication of the horse, and the foundation of the breed, might have increased the frequency of deleterious alleles through genetic drift. It is also possible that continued inbreeding of the Thoroughbred population over the past 300 years has inadvertently increased the frequency of deleterious variants in the population, potentially through hitchhiking on selective sweep regions.」

端的に訳せば、「300年に渡る深慮ない近親交配の継続によるボトルネック効果により、有害な遺伝子を持つ非健常個体が増加した」といったところでしょうか。 ボトルネック効果については「遺伝的多様性の低下に対する米国の方策(その7)」の最後の部分で触れましたが、 まだイメージがつかめない方は、『Newton別冊 学びなおし 中学・高校の生物』(ニュートンプレス)にあった こちらの図 が分かりやすいと思います。 このように狭い首(ネック)を持つボトルからこぼれ出た球の色の割合は、もともとのビンの中にあった球全体の色の割合から変化してしまうということです。 つまり、ビンの中の球の色はたくさんの種類があったとしても、ボトルネック作用が繰り返されることによってその種類がどんどん減ってしまうわけで、 この球を遺伝子に置き換えて考えてみれば、遺伝的多様性低下の惹起のしくみがお分かり頂けるでしょう。

さらにこの論文では、以下が書かれています。

「The level of F has increased constantly during this time, so we conclude that inbreeding has not effectively removed mutational load from the population. This explains why we observe strong inbreeding depression persisting in the contemporary population. We expect that this is due in part to a change in racing and training regimes over time that, in turn, has changed selection pressures on the population. In the 18th and early 19th century, Thoroughbred races were held over a distance of several miles, with each horse participating in multiple heats on the same day. In the 20th century, focus shifted to breeding sprinters and early developers for two-year-old racing.」

「F」とは近交係数です。要点を意訳すれば、「近交係数は増加しており、近交弱勢は顕著になった。 18世紀、19世紀の競走は数マイルの距離で実施されていたが、20世紀に入ると短距離戦や仕上がりの早い2歳戦に注力された結果である」 であり、これは「3200mの天皇賞が持つ意義」に書いたことと相通ずるものがあります。

このような英語の論文の話を持ち出すと、話が難しいと敬遠されがちです。 しかし、私だって遺伝学者ではありませんし、その一言一句まで理解しきれているわけではないですが、 書かれている要旨だけはなんとか頑張って理解して、このような発信を続けているのです。

遺伝的多様性低下対策は、世界各国のサラブレッド生産界にとって避けては通れない問題です。 つまり「現実」から逃げるわけにはいかないのですが、上記のA氏の言っていることも、B氏の言っていることも、競馬サークルの単なる「願望」にすぎません。 競馬関係者各位には、このような論文を、まずは文明の利器たるAIで翻訳をしながらでもいいので、その要旨を把握してみてほしいと思ってしまったところです。

(2022年7月30日記)

バイアスのかかった遺伝子プール(その7)」に続く

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