元調教師の言説

定年で引退した調教師がテレビやラジオで解説者を務めたり、 スポーツ紙や、そこが運営するウェブサイト等で持論を展開することを見かける機会が増えてきました。 調教師と言えば、競馬界においては確たるステイタスを築いた押しも押されぬホースマンです。 特にGI馬を数多く送り出した調教師であったならば、その定年後はメディアにおいて引っ張りだこになるのは当然です。

しかしです。数々の名馬を輩出した元調教師と言えど、その言説には怪しいものも少なくなく、重責から解き放たれたためかかなり自由奔放なものも目に留まり、 特に血統に絡む「遺伝」という生命現象についての言説には首をひねることがしばしばです。

例えば、或るスポーツ紙の専属競馬評論家である、かつてはGI馬も出した元調教師のA氏。 その専属スポーツ紙のウェブサイト上でA氏はアーモンドアイの初仔の配合について解説していたのですが、そこには、 「最近生産界ではやっているのが母系のクロス。今回生まれたアーモンドアイの子もこれに合致します。 父エピファネイアの母系と母アーモンドアイの母系それぞれにサンデーサイレンスがいる3×4の奇跡の血量です」とあったのです。 が、これは単なるサンデーのインクロスじゃないですか。それを母系のクロス??? 全く意味が分かりません。 加えて、日本の生産界で溢れかえっているサンデーの3×4を、この期に及んで「奇跡の血量」と表現していることに対しては、なんのコメントもする気になれません……。

さらに、著名なGI馬を何頭も送り出した元調教師のB氏は、或るスポーツ紙のウェブサイトに血統に関する連載をしていますが、 そこに書かれているコメントにはいくつも「???」と思う部分がありました。一例として、ラムタラの種牡馬としての失敗に関する氏の持論において、 「ラムタラは父のニジンスキーと違う栗毛の馬。母系の影響が出たんやろうけど、ニジンスキーの血を求めた僕からすれば、 それもラムタラを敬遠する材料になったかもしれん」と発言しています。通常の読み手は、なるほどと思ってしまうのかもしれませんが、 この発言は「遺伝」のメカニズムには詳しくないと自白しているようなものなのです。

毛色に関するこのあたりの話は「テスコボーイの栗毛産駒は走らなかった??」に書きましたが、 ラムタラの父 Nijinsky はテスコボーイと同じく鹿毛遺伝子「E」をヘテロ(1つだけ)で持つ「Ee」であったことから、栗毛系の牝馬と交配した場合、 産駒の50%は栗毛系となります(=メンデルの「分離の法則」)。 これを即「母系の影響が出た」とするならば、それは「テスコボーイの栗毛産駒は走らなかった??」 にも書いた遺伝学でいう「連鎖」という現象を意味するわけですが、そんな連鎖がいかにもあったかのように述べていることは、 名伯楽と言われた者のコメントとしては非常に浅薄だということです。

ちなみに、テスコボーイと同様に鹿毛遺伝子「E」を1つだけ持つサンデーサイレンス、ハーツクライ、キングカメハメハ、エピファネイアなどと違い、 「E」をホモ(2つ)で持つディープインパクト、ロードカナロア、ルーラーシップ、キズナなどからは栗毛系産駒は一切出ません。 B氏の言説の中では「遺伝力」という言葉も何度か出てくるのですが、そうすると、「これら栗毛系を出さない種牡馬は遺伝力が強いとでも言うのですか?」 と言ってみたくもなってしまうのです。

以上は、3年前に書いた「ないがしろにしてはならない基礎科学」で指摘したことそのものです。 調教師試験で「生物学の基礎」のような問題は昔も出題されてはいたのでしょうが、A氏やB氏の言説を見ると、 「最新の高校の教科書はすごい!」にも書いたような最新の科学は、すでに定年を迎えた世代ほど疎(うと)いのかもしれません。

ところで、先月末、7人のJRAの調教師が引退しました。 その中でも、自らが創出した調教理論に則って、数多くの名馬を輩出した藤澤和雄氏のメディアでの扱いは当然のことながら別格です。 各競馬番組や雑誌で藤澤氏の功績の特集を組まなかったものは皆無かもしれません。 先日のNHKのBS1では、『幸せな人間が幸せな馬をつくる「調教師 藤澤和雄 最後の400日」』という番組が1時間40分にも渡り放送されました。 このことから、現在の日本の競馬界は、藤澤氏が何かを発言すれば、すべて鵜呑みにされてしまう空気になっているような気さえします。まさしく偶像崇拝状態です(※)。 調教師として卓越していたのは確かですが、どんな有能な調教師でも、「馬」を生物学的に多面的・多角的にくまなく見た場合に、 その全てに抜けがないことなどまずないでしょう。

(※)昨秋のブリーダーズカップに続いて、昨夜はドバイでも管理馬が大活躍した矢作師も偶像化してきました。

調教師の仕事について、「「基礎」と「臨床」」に書いたところの「基礎」か「臨床」か? の視点に立てば、 そのほとんどは後者の範疇です。ぶっちゃけ論で言えば、調教師は「生まれてきたもの」を扱うのが仕事であり、 つまり「受精」「誕生」というプロセスを経た後の有形の個体の扱いが全てです。 高校の生物の教科書に載っているような知識などなくとも調教師としての業務には支障などないはずで、 実際に「メンデルの3法則を説明せよ」と言われて即座に答えられる調教師(および元調教師)など稀有中の稀有なのかもしれません。

JRAとはアドバイザリー契約も締結した藤澤氏。このことからももしもいま、競馬界においてなんらかの見解を乞う問題が発生したならば、 メディアは市場価値が高い藤澤氏のコメントを真っ先に求めにいくのでしょう。 例えば、別途私が繰り返し論じている、米国で一旦は施行が決定されながらも反故にされた種付頭数制限策ですが、 米国とて今後も依然として無策であることは考えられず、となると玉突き的に日本国内での議論も不可避となってきます。 すると、メディアは真っ先に藤澤氏あたりに対応案に関するコメントを求めにいくのではないでしょうか?

しかし、名馬をたくさん送り出した調教師だったからといって、名を馳せた偉大なるホースマンだからといって、なんでもかんでも知っているわけではありません。 いくら医者だと言っても、内科の医者に外科手術の可否の相談をしないように、耳鼻科に行って「二重まぶたに整形したいのですが」と言わないように、 名伯楽とは言えども、競馬界のあらゆることにコメントを求めても無理があるのです。 逆に言えば、名伯楽各位にお願いしたいのは、何かを尋ねられても、分からないことは分からないと正直に答えて頂きたいのです。

なお、別稿でも書いたとおり、米国で議論されている種付頭数制限策は、日本においては社台Gの利益に完全に反するものです。 そして……社台Gとは太いパイプがある藤澤氏です。 よって、仮に藤澤氏が「遺伝」に関する造詣が深くて遺伝的多様性低下に並々ならぬ危惧を抱いていたとしても、この策を奨励する発言などおいそれとできないはずです。 私が藤澤氏の立場なら、口が裂けてもそのような発言はできません(笑)。 だからこそ こちら にも書いたように、要らぬ利害関係を持たずに中立を貫くことこそ、 僭越ながらも私自身のレゾンデートルだと思っているのです。

名伯楽、つまり名を馳せたホースマンは、自らが発言する際には「インフルエンサー」としての自覚が強く求められます。 発言に影響力を持つ立場ゆえに、もしも誤った内容を発信した場合に、広くこれが蔓延してしまうリスクがあるからです。 しかしながら上述のようなことからも、そして こちら に書いたことからも、 科学的啓発の必要性が広範に競馬関係者全般にも必要であることをあらためて思い知らされます。

他方、科学的啓発の必要性は、その情報の送り手のみならず、受け手にも必要だということは言わずもがなです。 つまり、ネームバリューのある人物の言うことならば間違いないと安直に鵜呑みしてはならないということであり、 こちら にも書いたとおり、「なぜ?」と思うことがいかに大切かということ、そして、 まさしく情報の受け手には こちら に書いたリテラシーが求められるということです。

(2022年3月27日記)

こちら に書いたドバイのオーナーとは毎日のようにやり取りをしているのですが、 先週末のドバイにおける日本馬の活躍に、先ほどもらったメッセージでは矢作師を "He is a top trainer." と言っていました。 矢作氏はもはやグローバルに偶像化した様子です。

(2022年3月29日追記)


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