サステナビリティ

先週の島田明宏さんのネットケイバのコラム「熱視点」は「サステナビリティとは」 と題されたものでしたが、うなずくものがあり、ちょっと遅れてしまった私の今年初めのコラムのタイトルもそれに倣(なら)いたいと思います。

昨今、この言葉が一種のトレンド化して、果ては企業の格好の宣伝文句と化し、世の中を大手を振って歩いているような気がします。 しかし、そのように社会の表層を浮雲のごとく漂い続けるがゆえに、その言葉の本質、 さらにはそれを成就させるための手段をきちんと模索している人は、この社会の中でどの程度なのだろうかとも思ってしまうのです。

サステナビリティ……直訳すれば「持続可能性」であり、つまり、われわれみんなの生活が毀損されることなく、 子孫にもそれが確実に継承されていくというのが私のこの言葉に対する理解です。 言い換えれば、個人や小さな集団の繁栄を望むのではなく、大きな集団や社会(ソサエティ)、ひいては全世界に着眼し、 その包括的幸福を願うことだと僭越ながら解釈するのです。

焦点を当てる先は「個」ではないということであり、ここでサラブレッドという「群」に対して考えてみます。

近交係数と繁殖成績との関係」の冒頭に引用した、「日本ウマ科学会」の昨年の年次学術集会で報告された 「国内サラブレッド生産における近交係数と繁殖成績との関係」について、SNSでちょっと気になるコメントを見かけました。 そのコメントに対して抱いた2つの懸念について以下に記します。

まず1つめとして、上記の日本ウマ科学会での報告においては、近親交配に、優れた個々の能力を引き出す効果があるようなことは何ら述べられてはいません。 あくまで受胎率や流死産率に関する話です。 しかし、そのSNSのコメントは、こちらこちら に書いたファントムシーフを引き合いに出し、 このような強いインクロスでも健常性に問題ない活躍馬がいるという旨が述べられていたのです。 また、依然としてこの馬が引き合いに出されることは、この馬の近交度合い(近交係数)は2×2と同等だというような誤解がまだまだ広く蔓延しているということなのでしょう。

そして、2つめこそサステナビリティに直結する話です。仮に2×2のようなきついインクロスで生まれた馬が実際にいたとして、 その馬が素晴らしい成績をあげたところで、それは一個体においての話にすぎないにかかわらず、 このような成功例1つを掲げてサラブレッドという総体において問題ないと帰結する発想です。 凱旋門賞の連覇を含むGIを11勝した Enable を例に2×3でも活躍馬は出ることから、 このレベルの近親交配は問題ないという発言があるのがまさしくそれです。 「2×3でもこのような活躍馬が出るけど、だからと言ってみんながそこに好意的になったら遺伝的多様性低下に拍車がかかるので、 そろそろ慎重になった方がいいかもしれないね」といったような声はまず出てこないのが実際です。 依然としてそんな空気のサークル内で、サラブレッドという種の健全な維持、つまりサステナビリティに関する適切な議論ができるのかということが大きな懸念です。

喫煙は健康を害するとされます。しかしこれは相対的な話であって、万人に当てはまることではありません。 ヘビースモーカーでも健康を害することなくピンピンと長生きする人がいることも確かです。 Enable のような例を挙げて、このレベルの近親交配はまったく問題ないと主張するような言説は、 ヘビースモーカーの健康なおじいちゃんを引っ張り出して、喫煙は健康に問題ないと言っていることと同じです。 その裏に健康を害したヘビースモーカーがどれだけいたかということに気づこうとしていないのです。

拙著『競馬サイエンス 生物学・遺伝学に基づくサラブレッドの血統入門』の第3章「失われる遺伝的多様性」の最後は、 「持つべき集団遺伝学の知識」と題した項で締めました(こちら)。 そして、「個」と「群」は切り離して考える必要がある旨は「歯止めがかからなくなる懸念」や、 前回の「バイアスのかかった遺伝子プール(その12)」に書いてきました。

臆病になる勇気」にも書いたとおり、その群における遺伝子のバラエティの低下は不可逆現象です。 一旦バラエティが減ったなら、元には戻れません。サラブレッドにおけるサステナビリティに関与する要素は他にいくつもありますが、 遺伝学的側面においては、以上に書いた概念を継続的に持つことは必要不可欠だと考えます。

(2025年1月13日記)

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