X染色体(その1)
人間や馬のような動物において、オス(男、牡、雄)となるには性染色体が XY、メス(女、牝、雌)になるには XX であることはご存知のとおりです。
そして、「牝馬はY染色体を持たない」にも書きましたが、X染色体には生体の機能を司る有用なかなりの数の遺伝子が存在するものの、
Y染色体には性を決定する遺伝子以外に有用な遺伝子はほとんどないというのが現在の生物学の定説です。
いま手許に、『X染色体 男と女を決めるもの』(デイヴィッド・ベインブリッジ 長野敬+小野木明恵訳 青土社)という本があり、
興味深い記述をちょっと拾ってみたいと思います。
「Y染色体は、性決定の遺伝子をもつようになると、かなり厳しい運命へとみずからを任せることになった。
性らしかぬ領域以外では、YはXと遺伝子を交換できなくなった。それに加えて、細胞のなかで別のYと共存することがほぼ一切ないために、
ほかのYと遺伝子を交換することも許されない。このために、Xと別れてからのYは、孤独に浸り、生きる意欲を失ってしまった。(中略)
Yは、Sry(※)の働きのほかには、役立たず同然になってしまった」(88-89頁)
(※)オスという性を導く遺伝子。
遺伝子は染色体上に存在し、染色体は対(ペア)になって存在します(人間は23対で46本、馬は32対で64本)。
対になった染色体は互いに組換え(交差)が起こり、これについては「XファクターとSF(サイエンスフィクション)」や
「遺伝学的にも興味深いシラユキヒメの白い一族(その2)」で説明しました。
生物はこのように、ペアの染色体同士が組換えを行い、これを後世に伝えることで多様性を維持します。
つまり、或る遺伝子構成の個体を死滅させるような悪質な疫病が発生したとしても、
別の遺伝子構成の個体は確実に生き残れるように、つまり自らの種が絶滅しないように自己防衛するプログラムが組まれているのですが、
オスの生体におけるXとYという性染色体に限り、相互に組換えが不能となってしまったのです。
X染色体とY染色体がそれぞれ持つ遺伝子数の歴然とした差。
Xを2本持つメスと1本しか持たないオスとでは、身体をつくり上げるこれら有用遺伝子数の差が当然にできてしまうわけで、そこで、
これの埋め合わせのためにメスの生体においては、1本のX染色体の働きは抑制されているのです。
これが「X染色体不活性化」と呼ばれるもので、「最新の高校の教科書はすごい!」にも書いたとおり、
現在の高校の教科書にも載っている生命現象であり、意図的に一定の遺伝子のスイッチがオフにされるということから、
まさしく「エピジェネティクス」の一現象と言えます。
さらに『X染色体 男と女を決めるもの』では、以下が書かれています。
「ほとんどの女性は、体の中も外側も、二つの異なる細胞でできたパッチワークになっている ーーー こちらの細胞は一方のX染色体を使い、
あちらの細胞はもう一方のX染色体を使っている。(中略)
こういうことができるのはX染色体だけである。ほかの染色体は、胚のなかでスイッチが切られたりはしないからだ。
女が男よりもはるかに複雑であるための、これ以上徹底した方法はきっとない。男の細胞は遺伝的にはすべて同一であるが、女は二面性のある生き物なのだ。
こうした二つの生をもつことから、女性の健康や性や行動は、深い影響を受けることになる」(188頁)
「この『X不活性化』は、おそらくは女性が生き延びるために不可欠なことなのだ。(中略) なぜなら、人類が悩まされるよくある遺伝病のほとんどは、
染色体を余分に受け継いだり、染色体の断片が少し余分にくっついてくるだけで起きるものだからだ」(189頁)
「すべての細胞は、どちらのXを不活性化してどちらを残すのかを、なんらかの方法で『選択』しなければならない。どうやらその選択はランダムになされるようだ」(191頁)
さらに以下は、もう1冊手許にある『男の弱まり 消えゆくY染色体の運命』(黒岩麻里 ポプラ新書)からの引用です。
「女性のX染色体には父親からもらったものと母親からもらったものの2種類が存在しますが、どちらのX染色体がはたらくか
(言い換えればどちらのX染色体を不活性化させるか)は、細胞によって異なるのです。
つまり女性の身体ではある細胞では父親からもらったX染色体の遺伝子がはたらいていて、また別の細胞では母親からもらったX染色体の遺伝子がはたらいていて、
という具合にモザイク状になっているのです。これが、女性の社会的能力、言語能力、認知能力などに多様性をもたらしていると考えられています」(24-25頁)
「つまり遺伝情報がまったく同じ一卵性双生児でも、X染色体の遺伝子に関しては、姉妹(女性)間でどちらの親の遺伝子がはたらいているかはばらばらなのです」(28頁)
こちら の画像をご覧下さい。『Newton別冊 学びなおし 中学・高校の生物』(ニュートンプレス)からの抜粋ですが、
この三毛猫の図と注釈が、上述してきたことを端的に物語っているわけです。(「三毛猫におけるエピジェネティクス」もご参考まで)
相変わらず「……だから……だ」のような単純帰結の血統論が散見される一方で、このようにわれわれ生物の体内では深遠な事象が常に展開されているわけで、
『X染色体 男と女を決めるもの』には以下が書かれています。
「生物では単純なことはなにひとつないうえに、なにごとも正しい順序で進んだりもしない」(37頁)
(2022年7月3日記)
X染色体の話は、上記の『男の弱まり 消えゆくY染色体の運命』を引用しながら、「究極の進化のかたち???」でも書きました。
(2022年7月5日追記)
「X染色体(その2)」に続く
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