遠い祖先までさかのぼる血統表に意義は?

前回の「インフルエンサーの言説」では、或る人が9代血統表を議論に持ち出してきた話を書きましたが、今回は、 サラブレッドの能力の追究において、そこまで祖先をさかのぼる必要があるのかについて論じてみたいと思います。

結論から言えば、おのおのの種牡馬や繁殖牝馬の能力やレース予想における出走各馬の特性の検討において、 言い換えればサラブレッドの一個体、つまり「個」に焦点を当てた特性の探究において、 8代前や9代前という遠い祖先までも網羅したような血統表を用いることは、ほぼ意味がないと考えます。 9代前の祖先数は2の9乗であり、延べで512頭もおり、これらの遺伝子が蜘蛛の巣状に入り組んだ産物がわれわれ「生き物」の一個体です。

その一方で、別途このような遠い祖先まで焦点を当てる意義は当然にあり、その生物種の遺伝的多様性の程度の測定などにおいてです。 つまりそこで論ずるべき対象は、「遺伝的多様性の低下に対する米国の方策(その7)」や 「バイアスのかかった遺伝子プール(その2)」に書いたとおり「個」ではなく「群」であり、「集団遺伝学」 に焦点を当てた場合です。 すると、「バイアスのかかった遺伝子プール(その10)」の最後に書いたことをご理解いただけるのではないかと思います。

蜘蛛の巣状と言ったように、その馬の9代前までの祖先を対象とした近交係数を算出する場合、サラブレッドのように多様性が高くない遺伝子プールにおいては、 インクロスする共通祖先の種類がたくさんいることから、それこそ蜘蛛の巣状の計算式になります。 前回書いた「インフルエンサーの言説」の後段では、インクロスする「共通祖先」が増えることは近交係数の上昇の要因となり、 その挙句の果てが遺伝的多様性の低下だと書きました。

これを端的に説明するのは難しいのですが、例えば こちら は拙著『サラブレッドの血筋』の第3版からの抜粋です。 これの2頁目の馬吉さんと馬代さんが登場する矢印だらけの図を見ていただきたいのですが、 インクロスする祖先が増えることはこの矢印の輪の数が増えることを意味します。 また、「近親交配(インブリーディング)とは何か?(その2)」にも書いたようなインクロスする祖先同士が親仔だったりすると、 その輪同士が複雑に絡み合うわけです。

……と、ここまで書いてはみたものの、通常の競馬ファンからは「小難しいことを言いやがって、わかりゃしないよ!」と言われそうです。 とは言え、祖先を深くさかのぼってその馬を検討するのであれば、このような理解は必要不可欠なのですが、 8代、9代血統表を用いる血統論者の言説で、そのような生物学的認識に沿ったものは見たことがありません。

繰り返しますが、そのように遠い祖先の影響力の探究を生物学から逸脱せずにやろうとするならば、とても単純な話ではないということです。 「栗毛に出たグランアレグリアの初仔」に書いたように、その栗毛遺伝子はどこから来たのかを探ってみても、 5代さかのぼった時点ですでにわからなくなるのです。歯に衣着せぬ言い方をすれば、8代前や9代前の祖先を網羅した血統表を持ち出している血統論者の言説は、 「五目並べ」しか知らないのに「囲碁」の解説をまことしやかにしているようなものばかりです。

そのような論者が、一般のファン向けにそのような言説を持ち出すのはまあいいとしましょう。 その一方で、時に憤りさえ覚えることがあります。そんな論者がそんな持論をポジティブに生産者に発しているのを見聞した時です。 「近親交配(インブリーディング)とは何か?(その10)」の冒頭で「収率」「歩留まり」の話を書きましたが、 ファンと生産者では立ち位置がまったく違います。

もしかしたら、このような血統論者は生産者に対して配合コンサルタントとして活動しているかもしれません。 そのコンサルタントが、もしも上記のような遠い祖先を網羅した血統表を持ち出してきたなら、まずは気をつけてください。 そして、できればその際、「メンデルの3法則を教えてください」とか「なぜ近親交配にはリスクがつきまとうのですか?」というような初歩的な質問もしてみてください。 即座に回答できないようなコンサルならば、即さよならを言いましょう。

(2024年7月8日記)

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