科学的な思考(その1:理論なるもの)
先日、『科学的思考入門』(植原亮 講談社現代新書)という本を読みました。
サラブレッドの血統(配合)を科学的に検討する際にも有用と思われることが多々記述されており、その中のいくつかのくだりを引用しながら、
何回かに分けて論じてみたいと思います。7年前に書いた「科学的とはどういう意味か?」の続編の意味合いも持ちます。
まず、当書の第1章「科学的思考をスケッチする」を読み始めると「科学とは説明するものである」(24頁)とあり、
「では、説明とは何か。説明することで目指しているのは、ひとつには『なぜ』『どのようにして』といった問いに答えることで、わからないこと ――
『謎』といってもよい ―― を減らすことだ」(25頁)とあります。
6年前に「「なぜ?」と思うことの大切さ」を書いたことを思い出しました。
著者の植原氏によれば、「理論的な説明ができるということは、説明と説明の間に結びつきがあることを意味する。
というより、そうした結びつきによって複数の説明がひとまとまりになったシステムのことを『理論』と呼ぶのである」(当書31頁)とのことです。
一方で、手もとの電子辞書中の広辞苑で「理論」という言葉を調べてみると、theory の意では以下の3つが列挙されていました。
@科学において個々の事実や認識を統一的に説明し、予測することのできる普遍性をもつ体系的知識。
A実践を無視した純粋な思弁的・観想的知識。この場合、一方では高尚な知識の意であるが、他方では無益だという意味のこともある。
Bある問題についての特定の学者の見解・学説。
植原氏の言う「理論」はほぼ@です。そうすると、競馬サークル内の血統関連の言説において、@に当てはまるものはどの程度あるのかと思えてきます。
「血統理論の在るべきかたち」を書いたのは6年前ですが、依然としてAに当てはまるものが多いのではないでしょうか。
ちなみに「我が言説」に書いたように、もしも私が、私自身の言説を安直に「理論」と銘打って吹聴し始めたら要注意です(笑)。
「キャッチーな表現」では、「『=』ではなく『≠』でもなく『≒』であれば、どうしてそのような結論が導き出せるのでしょうか?」
と書きました。説明と説明の間に結びつきがあるとは思えません。
当書25頁には、「一般に、AとBというふたつのできごとの間に、『Aが原因となってBという結果が生じる』という関係があるとき、
AとBには『因果関係』が成り立っているという。原因の『因』と結果の『果』を合わせたのが『因果』だ。
因果関係を考えたり説明したりすることは、科学という営みの ―― ということは科学的思考の ―― 核心に位置している」とありますが、
因果関係については後日の続編で論じたいと思っています。
当書の48-49頁には、17世紀の英国の哲学者であるフランシス・ベーコンが『ノヴム・オルガヌム』に記した以下の逸話が紹介されています。
「そういうわけで、難破の危機を免れて、祈願を成就した人々の絵が寺院にかけられているのを見せられて、ある人が、『それでも神々の力を認めないのか』
と問い詰められたとき、『しかし、願いをかけたのに死んだ人々の絵はどこにあるのか』と問い返したのは、もっともである。
占星術、夢占い、予言、神の賞罰のような、すべての迷信のやり方は同じ流儀であって、こうした例でこの種の虚妄に魅せられた人たちは、
それが満たされる場合の出来事には注目するが、しかし裏切る場合には、どれほど頻度が大きくても、無視し見逃すのだ。(中略)
あらゆる正しい公理を形づくるには、否定的な事例のもつ力の方がずっと大きいのである」
植原氏は、上記逸話においては科学的思考を誤りに導く偏見たる「認知バイアス」の問題が提議されている旨を述べています(当書50頁)。
「確証バイアス」は「認知バイアス」の一種とされ、これについては「「バーナム効果」と「確証バイアス」」で論じましたが、
「サステナビリティ」に書いたヘビースモーカーの話もそれです。理論構築において弊害となる確証バイアスの話も続編で論じる予定です。
(2025年3月16日記)
「科学的な思考(その2:因果推論)」に続く
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