我がレゾンデートル(その1)

現3歳に「レゾンデートル」という名の馬がいるようですが、今回はこの馬の話ではないことを先ずはお断りしておきます(笑)。 Raison d'Etre とはフランス語で「存在意義」とか「存在価値」の意で、最初この言葉を知ったのは『課長 島耕作』だったかなと思ったのですが、 おこがましくも今回はちょっと自分の在り方について考えてみたくなりました。

別途ツイッターやフェイスブックにも書いたのでご存知の方も多いと思いますが、 シーザリオの追悼記事として、キャロットクラブの会報の最新号に「シーザリオの血に流れる偉大なる母の力」と題したものを寄稿しました (画像1 画像2)。 正直なところ、キャロットの事務局から寄稿オファーを受けた時はかなり意外な気持ちがしたのです。 理由は、こちら のように、俗に言う「社台系」たる一口馬主の組織にも直截的ではないにしろポジティブなことをあまり書いてこなかったからです。 よって、そんな私に対してもオファーをくださるキャロットクラブに限っては、私の中での印象がちょっと前向きに変わってきました。

ただしです、だからと言って今後も我がスタンスを変えるつもりは一切ありません(笑)。 私はいままで辛口なことを書きたくて書いてきたのではなく、第三者的な目で眺めると、どうしても書かざるを得ないと思ったことだけを書いてきたつもりです。 僭越なことを申せば、右にも左にも寄らない姿勢を貫くのが自分の在り方、つまりレゾンデートルだと思っているのです。

現在の競馬サークル全体を眺めてみると、やはり巨大になりすぎた組織に対してネガティブなことを言うことはタブー化しているような気がしてなりません。 こちら で触れた国枝師の著書『覚悟の競馬論』(講談社現代新書)でも、 こちら で触れた角居師の著書『さらば愛しき競馬』(小学館新書)でも、 例えば社台に対するネガティブなことは何ひとつ書かれていません。 しかし、どんな素晴らしき組織体であったとしても完全なものであるはずがなく、 サークル内で確かな地位にいる(いた)各師にさえアンタッチャブルな領域がある(あった)という証左でもあるわけです。 敬意を抱く人がいた場合、ついついその人の考え方の全てに頷き許容してしまいがちですが、しかしそのような態度は「敬意」とは全く違うのです。 すると、こちら でも引用した厚切りジェイソン氏の「違いは不快、でも安定には成長はない」という言葉も思い出してしまうのです。

今後の日本競馬界の発展は関係組織全般における共存共栄があってのものですが、上述のようなことを鑑みると、 現在の永田町や霞が関のような姿を倣うことなく言うべきことは言える空気の醸成が不可欠であることは間違いありません。 そしてそこには利害関係にしばられない健全な「競馬ジャーナリズム」が必要であり、再び僭越なことを申せば、 そこに自分のさらなるレゾンデートルを求めることができないかと思いを巡らせているところです。

そのためには私として、どこにも迎合も忖度(そんたく)もせずに正しいと思ったことは発信していくこと、 しかしその発信した内容に要修正点があったことが事後に判明したなら真摯にそれを認めて軌道修正をしていくことだと思っており、 こちら にも書いたとおり、自分自身のことは可能な限りオープンにすることを心がけています。 自己をさらけ出せばいつでも直截的に何かを言われる可能性があり、それは常にドキドキです。 しかし仮にも他者に対するネガティブな視点での論述を発するのであれば、そのような覚悟を持たねばならないのは当然のことでもあります。

そんな論述を発信してきた身として、今般ちょっと最後に付記したいことがあります。 こちらこちら では日本ウマ科学会についてネガティブに書いてしまいましたが、一方で、 こちら の拙著『サラブレッドの血筋』第2版の18頁にある「専門家の先生」とは日本ウマ科学会の常任理事であり 『サラブレッドに「心」はあるか』(中公新書ラクレ)等の著者でもある楠瀬良氏で、個人的には大変お世話になっており、申し訳ない思いがありました。 また、こちら で反論を述べてしまった吉田直哉氏のご実家は、私が学生時代に本当にお世話になった吉田牧場であり、 かなり心苦しいものがありました。この場を借りてお詫びさせて下さい。そして、どうか今後も競馬界発展のために有意義な議論を戦わせて頂ければ嬉しいです。

そして、今般はこんな私に寄稿依頼をくださったキャロットクラブに対して、あらためて御礼申し上げたいと存じます。有難うございました。

(2021年4月4日記)

我がレゾンデートル(その2)」に続く

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