遺伝的多様性の低下に対する米国の方策(その6)

「遺伝的多様性の低下に対する米国の方策」と題したものは、 これまでに (その1)(その2)(その3)(その4)(その5)と書いてきました。 また、我が国が採るべき策についての私の考えも「我が日本の講ずべき方策」に書きましたが、 数日前に入ってきた以下の記事によれば、北米において一旦施行を決定したこの種付頭数制限策は、結局のところ撤廃される模様です。

THOROUGHBRED DAILY NEWS
BLOODHORSE

つきましては、本件の顛末および今後について、論点を整理しながら私なりの見解をあらためて以下に述べたいと思います。

1.結局は予想どおり

一昨年施行を発表した案は当初の案からはかなり妥協した案ではありましたが、その妥協案さえ最終的には受け止められませんでした。 まだまだ「遺伝的多様性」の維持の重要性に関する理解が十分に行き渡っているとは思えなかったため、 (その4) にも書いたとおり、当初私はこのような案はけんもほろろに反故にされると思っていたのですが、 残念ながら予想どおりの結果となりました。

なお、今回のニュースだけでは、生物学的な見地からはどこまで掘り下げて検討され、どのようなプロセスを経て最終的に撤廃が決定されたのかは把握しきれません。 米国におけるコロナ対策でも、民主党と共和党では考え方が大きく違ったように、 現地議会による今般の判断がきちんと科学的な検討プロセスも踏んだのかは非常に気になるのですが、しかしやはりその前に一番気になるのは、 その是非を論ずる各位がきちんと今般の顛末の論点を理解しているかということです。

2.科学的啓発の必要性

ネットを見ていたら、或る競馬関係者の意見に、個々の種牡馬の消耗度合いをチェックしながら個別に判断すべきというようなものがあったのですが、 このように種牡馬の過剰使役予防が本施策の目的だといまだに信じ込んでいる意見は論点の的が完全に外れているわけで、 この期に及んで同様のことを思っている関係者は少なくないのかもしれないと思うと、暗澹たる気持ちになってしまったのです。

その一方で、今般の米国の方策について、ジョッキークラブや現地科学者は、なぜこのような方策が必要なのかについて、分かりやすく懇切丁寧に、 それこそ相手方の立場になって説明をしてきたのでしょうか? そして、その説明において居丈高な態度はなかったでしょうか?  「『伝える』ということを考える(その1) (その2)」 に書いたようなことも非常に気になるのです。

種付頭頭数制限のような方策の決定に影響力のある者、そしてその利害に接する者たちが、「遺伝」に関する造詣を深めない限り、 今後も今般のような行ったり来たりを繰り返すのは目に見えています。

3.主役は「生物」たるサラブレッド

今回の米国の最終判断がまさしく正しいと安直に受け止めてしまう空気が勢力を増さないかが心配です。 ここで忘れてはならないのは、一旦は施行が決定した今般の種付頭数制限という施策について、本当にそれは非だったのか。 仮にそれは是だったとしても、最善の制限対象や制限頭数については誰も答えられないということです。

上記の THOROUGHBRED DAILY NEWS の記事にはクールモア等の大手ブリーダーの喜々たる声明が掲載されていますが、 そのブリーダーが大手であろうと中小であろうと、このような施策で不利益をこうむる立場であろうとなかろうと、「科学」に対する認識は同じでなければなりません。 つまり、主役は「生物」たるサラブレッドであるということが、忘れてはならないもうひとつの重要な点です。

なお、確かにこのような策は大手にとって不利益になることに間違いはないので、その補償策の検討が不可避であることも忘れてはなりません。

4.今後は?

施策は反故にされはしたものの、このようなせめぎ合いができる米国はやはり一歩進んでいると言えるのではないでしょうか?  少なくとも私レベルでは日本国内における具体的な話は全く耳に入ってきません。 前回 も書いたように、このような施策は社台Gの利益には完全に相反しますし、 「我が日本の講ずべき方策」のようなことを書いてはみたものの、今後の我が国をあらためて予想すると、 悲しいかな自発的に動くことはやっぱりありえないように思われ、動くとすれば、 他国からの協調(ハーモナイゼーション)圧力による受動的なものにすぎないのではないかと思っています。 だからこそ、米国の今後の動きに対してしっかりとアンテナを張っていく必要があると考えるのです。

ちなみに欧州については、「Galileo の血に埋没する欧州」 に書いたように主要国が一枚岩となって本件に対する何らかの方策を打ち出すなど想像もできず、これも日本と似たり寄ったりかもですね。 よって、「米、欧、日の負のレース」では日本は果敢に先行している気配ありと書きましたが、 現在は欧州との先頭争いといったところでしょうか。

ハービンジャー産駒のペルシアンナイトおよびブラストワンピースが種牡馬になれなかったのも含めて、世界的にも種牡馬に対する見切りが早くなっていますが、 新たに優秀なハービンジャー産駒が出現している様子もあり、このような見切りが果たして正しいのかの議論が若干活発化している気配があります。 いずれにしてもこのような早期の見切りは、人気種牡馬の年間種付頭数200以上が常態化しているアンバランスな現状に拠るものであり、 仮に種付頭数制限策が施行されれば、このような面にも好ましい新たな変化が期待できるわけです。

今般の米国の決定について、こちら に書いたベネズエラ出身で米国在住の獣医師にもどう思うかを尋ねたところ、 どうしても経済優先の思考ばかりが先行してしまうことに、"It is sad." と言っていました。このような状態が今後も続けば、(その2) に書いたサイレントキラーがますます侵蝕し、生物学的に不健全な方向に進むのだけは疑う余地がありません。 遺伝的多様性の低下をきたした生物群はもうあとには戻れないことを、最後に念を押しておきます。

(2022年2月20日記)

遺伝的多様性の低下に対する米国の方策(その7)」 に続く

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